あなたの名前
予備校でしか会わない、あなたの名前。
いつしか、私は目の前の席に必ず座る、あなたの名前を知りたいと思うようになった。
「ねぇ、何て名前?」
って、気軽に聞くことなど到底無理だった。だんだんと私の中で、あなたの存在が大きくなってしまったから。
授業中ともなると、あなたの後ろ姿が気になって仕方がなかった。よく見ないとわからないような寝癖を見つけたこともあった。そんなところを見ている場合じゃないって思っていても、ホワイトボードを見るたびに、あなたの後ろ姿を見ることになるから。
数回の授業が過ぎ、目の前のあなたが気になる存在になり始めたころ。
決まって、私のほうが先に予備校に到着していた。ノートやテキストをカバンから出して、授業の予習を始めようとしたとき、あなたが目の前の席に座った。
椅子を引く音が聞こえた時――
私は驚いて、消しゴムを落としてしまった。
かっこ悪い。恥ずかしい。
私の脳裏にそんな言葉が躍り始めながらも、消しゴムを拾おうと席を立とうとすると、あなたが先に消しゴムを拾ってしまった。
「はい」
そう言って、私の席に消しゴムをあなたは置いてくれた。ぽーっとしながらも、
「あ、ありがとう」
口をもごもごさせながら言った。
もっともっと、話がしたい。そう思っていると、
「あの、どこの高校ですか」
勇気を出して、聞いてみると、彼はこちらを向いてくれた。いろいろと話をしていると、私と彼は同じ路線に住んでいることがわかった。
「同じ路線だったのか。奇遇だね」
思いのほか、話は盛り上がった。
私たちの周りは、全く話声なんか聞こえない。ここにいるのはみんな受験生。ようは、ライバルなわけだ。ライバル同士で、こんなに和やかに話をすることは、変なのだろうか。
「そうだ、名前は?」
質問したいことは、彼のほうから聞いてきた。
「私は、日比野なずなです。あなたは?」
「俺は、吉永恭介。よろしくね」
吉永恭介。
心の中で、吉永君の名前を口ずさんだ。
「ライバルだけどね」
照れ笑いを浮かべて、私が言った。
それからは、予備校が楽しくなった。授業を聞いていても、目の前にいる吉永君を見ると、ピンと張りつめた教室で、緊張していた心がほぐれていった。
でも、本当は緊張の糸は切れないほうがいいのだろう。受験生なのだから。勉強した内容をしっかりと頭の中に叩きつけなくてはならないのだから。
わかってる。
わかっているのに、もっと吉永君と近付きたい気持ちが強くなってしまう。
授業がうわの空・・・とまではいかないけれど、力いっぱいとまではいかないような気がした。
受験勉強が何よりも最優先・・・のはずなのに、恋が私の頭を支配している。
初めて吉永君の名前を知ったその日の授業が終わった後、私たちは自然と一緒に帰ることになった。
予備校を出ると、春から夏へと変わりかけた季節の涼しい夜風が、私たちを包んだ。少々肌寒く感じられ、私は両腕をさすった。
「ちょっと、冷えるね」
吉永君は、優しい声で私を気遣ってくれた。
「夜は、ちょっと寒いね」
予備校から駅までは、一緒に居られる。それだけのことなのに、私はドキドキと喜びで心の中がいっぱいになっていた。
「どこの大学を受験するかは決まってるの?」
当たり前のことだけど、受験生らしい質問だ。
「行きたいところはね。だけど、受かるかなぁ」
「今から弱気でどうする。これから、何か月もかけてその大学に行けるように準備しなくちゃね」
前向きな答え。その答えに、男らしさを感じた。
「そうだよね。来年の受験日までに、準備しなくちゃね」
苦笑しつつ、私は言った。
駅に着くと、お互いに回数券を取り出した。
ホームにつき、私たちは電車を待った。電車が来れば、ほんの数分で吉永君とお別れだ。また、来週になれば会えるけれど、それまでは全く会うことなんてできないのだ。
吉永君も私も電車が来る来ないということをそっちのけで、話をした。
電車が来れば、私のほうが先に降りてしまう。
なるべく電車が遅く来て欲しいと願っていた電車が、とうとう着てしまった。もう少し、ホームで話し込みたい気持ちだったけれど、人ごみに紛れこむように私たちは電車に乗った。
その時の吉永君は、ちょっとさみしそうな表情をしていたと思う。
「混んでるね」
そんな会話をしつつ、私も吉永君も吊革につかまった。
電車が揺れるたびに、私の体も揺れ動いたけれど、吉永君はあまり体が動いていなかった。吉永君のほうへ倒れそうになると、
「大丈夫?」
と心配された。その優しさが、私にとっては心の中に花が咲いたような心地よさがあった。
心地いい時間は、すぐに去って行ってしまった。
最寄駅に着くと、
「私、もう降りなくちゃ」
「気をつけてね。じゃ、また来週」
吉永君は、私が電車から降りても手を振っていてくれた。私は、後ろ髪をひかれる思いで、駅を後にした。