桜の約束
――大学に合格したら、この木の下でまた会おうよ。
それは、高校3年生の私が言ったセリフ。
予備校の最後の授業が終わった後に、吉永君に言ったのだ。受験仲間という中途半端な関係から、もっと肩の力を抜いた、より近い関係になりたいと思っていたのだ。
片思いを終わらせたい――
そんな思いも巡っていた。
最後の授業は、いつも以上に終わってほしくない気持ちでいっぱいだった。この授業が終われば、今まで通り、毎週必ず吉永君と会える状態が終わってしまう。
毎回、吉永君の背中を見ながら、心のどこかでほっとしながら授業を聞いていた。それも終わってしまうのだ。
そして、授業を聞きながらも私は、ある事を考えていた。
授業が終わったら、吉永君にもう一度会う約束をする。
これをやっておかないと、二度と吉永君とは会えなくなってしまうかもしれないからだ。最近は、そのことばかりを考えていた。どうやって、約束を切り出そうか。それに、吉永君が守ってくれそうな約束でないといけない。
受験勉強の合間に思いついたのが、予備校の近くにある公園にある桜の木の下で会うことだ。花見がてらに、一緒に合格祝いでもしようと言えば、きっと吉永君だって約束を受け入れてくれるだろうと考えたのだ。
最後の授業だというのに、私はどうやって切り出そうか。そのことばかりを考えていた。勉強より、受験より、恋を最優先していたということだろう。
授業が終わると、私はいつもよりも遅いスピードで片づけた。しかし、吉永君はいつもと変わらないスピードで片づけていた。
「どうした。元気なさそうじゃない」
手際よくテキストや筆記用具を鞄にしまうと、吉永君はこちらを向いて、ゆっくりと片づけている私にまん丸い目を向けた。
「そんなことないよ。吉永君が早いだけ」
とは言ったものの、周りを見ると、やはり皆、手際よく鞄にテキストや筆記用具をしまい、どんどん教室から人が減っていった。
中には、まだ黒板の文字をうつしている人もいたが、大半は教室を出て行ってしまった。
私もスピードを上げるか。
仕方なく、けだるそうに鞄にテキストなどを詰め込むと、
「じゃ、行くか」
気合いの入った声で、吉永君が言った。
まるで、一秒でも早くここから去りたいと言っているかのように聞こえた。私と一緒にいたくないの? 心の中でつぶやいたが、吉永君には全く気づいている様子はなかった。
予備校を出ると、吉永君はそのまま駅へ向かおうとした。このままでは、約束ができなくなってしまう。あわてて、吉永君の鞄のひもを引っ張ると、驚いて吉永君がこちらを振り向いた。
「どうしたんだよ」
「あのさ、ちょっと寄り道していかない?」
「寄り道?」
「そう、今日で最後なんだし。近くの公園に行って・・・・・・みない?」
心臓が止まりそうだった。受験を間近に控えていて、吉永君が断ってしまうのではないかと思っていた。吉永君も驚いた顔をして私をじっと見つめている。こんな時期に何を言っているんだと思っているに違いない。
「いいよ」
「へっ」
以外にも吉永君は固まったかと思うと、あっさりとOKしてくれたのだ。
「行こう」
吉永君に導かれるように塾近くの公園に向かった。もしかしたら、これで最後になるかもしれない吉永君の隣。悲しみに胸が押しつぶされそうになっていた。
公園までの道は、人気がほとんどなかった。
公園内には誰もおらず、吉永君と二人きりになった。
ひんやりとした夜の公園。葉のない木々の薄暗い影の中に街灯が灯されていた。
「今日で終わっちゃったね、塾。冬期講習は違う予備校で受講するんだよね」
「あぁ。直前合宿に行くから」
今、吉永君はどんな気持ちでいるのだろう。あっさりとした言葉しか言わない。私と会えなくなっても痛くもかゆくもないのだろうか。今は、それよりも受験の方が大事なんだろうな。
「受験、うまくいくといいね」
美味い言葉が出てこなくて、違う言葉しか出てこなかった。本当は、受験が終わってからでいいから、また会いたいって、また会おうって言いたいのに。
「お互い、頑張ろう。お互いに、第一志望に合格するといいね」
街頭近くのベンチに吉永君が座った。私は街灯の下で、そんな吉永君を見たり見なかったり。
「私、自信ないな」
「大丈夫。自信を持てば、きっと合格するよ」
前向きな吉永君の言葉。妙に人わりと体の芯が温まった。吉永君の言葉は、体が吸収するみたいだ。寒い公園にいるからでは、きっとない。
ゆっくりと公園の中にある一番大きな桜の木に近づいてみた。街灯のすぐ近くにある。大きくて立派な木だ。桜の木の下に立ち、見上げてみると灰色の空に広がる黒い枝が見えた。春になると、満開のピンク色の花を咲かせるようには見えない。
「私、この木が咲いているところって、見たことないな」
「満開になると、ものすごくきれいなんだ。前に一度だけ見たことがあるよ。小さいときに、家族でこの近くに来たときに見たんだ。花見客でいっぱいだったから、ちょっとしか見てないけど、すごくきれいだった」
今、吉永君の脳裏には当時の素晴らしい桜の木が写し出されているのだろう。ベンチから桜の木を見上げて、目を細めている。
「私も見てみたいな」
吉永君から、誘いの言葉を期待した。だけど、吉永君は何も言ってはくれない。鈍感なのか、私に興味を持ってくれていないのか。
自分から切り出さないと、無理だろう。
「ねえ、大学に合格したら、この木の下でまた会おうよ。3月の終わりごろには、もう咲いているかな」
「いいよ。気温にもよると思うけど、合格発表が終わった後に、ここで待ち合わせよう。いつがいいかな」
やった!
OKしてもらえた。これで、また吉永君に会える。嬉しくて爆発しそうな感情を押し殺した。交際をOKしてもらったというわけでもないのに、喜びすぎたらおかしいと思われそうで。
「3月31日の正午! なんてどう?覚えやすいでしょう?」
「わかった。3月31日の正午に、ここで会おう」
そして、受験を終え、私はどこの大学にも合格しなかった。浪人することになったのだ。ショックだった。どこでもいいから大学に合格したら、吉永君に会うんだと、それを目標にしていたのに。
大学に合格したら――
私は、そう言ったのだ。今でもはっきりと覚えている。
どこか一校は受かるだろうと思っていたのだ。でも、結果は惨敗だった。
吉永君との約束を守ることを優先して、私は吉永君に会いに行かなかった。
どこも受からなかったと言ったら、それなのに会いに来たと知ったら、吉永君はどう思うだろう。
うそつきだと思われてしまうかもしれない。吉永君に変な目で見られたらと思うと、行けなかった。