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吠えない蝉  作者: 野間義之
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8

 靖男の父は大手自動車メーカーの工場で働いていた。稼ぎも悪くなかった。しかし賭け事と酒にだらしがなかった。

 賭博の才覚も運もなく、勝っても負けても酒を飲んでは母や靖男や妹に暴力を振るった。

 母は懸命に子供を庇い続けたが、父はついに悪酔いの果てにまだ七歳だった靖男にむかって包丁を投げた。幸い包丁は逸れて靖男は怪我をせずにすんだが、母の忍耐もそこまでだった。

 母は離婚を申し出た。しかし父は応じず、別居となった。弁護士を入れるなりすれば離婚はできただろうが母はそこまでしなかった。靖男と妹も、親の機微に踏み込むことはしなかった。

 別居以来母は女手一つで靖男と妹を育て、それぞれの結婚を見届けると、癌で他界した。二年前のことだ。

 そして父は去年の春に殺された。職を失い路上生活者となっていた父は仲間とつつましく桜の花見をしていた。そこを若者グループに絡まれて、そのうちの一人に面白半分に公殺されたのだという。

 絶縁状態だったため、失業のことも路上生活を送っていたことも知らなかった。そこまで身を落しても靖男たちに金の無心に来なかったのが意外だった。

 靖男と妹は身元確認のために遺体安置所で父の遺体と対面した。しかし、それが父だと確信が持てないまま、「はい、父です」と応えるしかなかった。

 痩せこけていたうえに、顔は暴力によって変形・変色していた。幼少期に悪鬼の形相で包丁を投げてきた男の面影とかけ離れていた。

 自衛隊で災害の救助活動に出動したことがあった。土砂に埋もれていた遺体を掘り出したとき、見知らぬ赤の他人の亡骸に涙した。

 しかし、殺された実父を前にしては悲しみも怒りも湧いてこない。

 公殺法に(のっと)り警察が父を殺した若者の資料を渡してきた。その春に大学へ入学したばかりの十八歳の少年だった。

 飲酒と喫煙で警察からしぼられても、人を殺したことは罪に問われないのだ。その不条理に靖男は「これが公殺ってやつか」と呆れてしまった。

「コイツに復讐でもしろっていうのか?」

 靖男にも妹にも、その権利があるのだという。

 しかし資料は帰り道のゴミ箱に投げ捨ててしまった。それを見て妹もなにも言わなかった。


 公殺されたとなると遺族への風当たりも強いと聞いていた。

 殺されるにはそれなりの理由がある。自業自得、自己責任の因果応報という風潮だ。

 しかし絶縁状態が長く、父親はもういないも同然となっていたために靖男と妹が白眼視に晒されることはなかった。

 だが興信所や情報提供会社を名乗る者が代わる代わる家や職場付近に現れて、件の若者の情報を買わないかと営業をかけてくるのには辟易した。なかには大学の履修科目や時間割、バイト先のシフトまで調べて上げている者もいた。

 靖男と妹は追い返し続けていたが、そういった輩が諦めて姿を見せなくなるまでしばらくかかった。



 布団に横になったものの眠れず、当時のことを思い出す。

(死んでザマミロぐらいにしか思えなかったな)

 そして、『よい父親』を知らない自分が『よい父親』になれるのか。考えだすと眠りはますます遠くなる。時刻は夜中の一時を回った。

 隣では杏子がクッションに抱きつき、横を向いて寝ている。それが一番楽な寝方なのだという。

 杏子のお腹に触れてみたくなった。子供の寝相を感じてみたかった。

 手を伸ばしかけたとき――

「やだァ、触らないでェ」

 外で女の声がした。

 またか、と舌打ちして手を引く。

「まだだめぇ?」

「もうちょっと待って」

 中年男と若い女のしもがかったやり取りが窓の下に近づいてくる。

「なんだよチクショー……」

「その口癖やめなよ。子供が真似したら嫌だよ」

 杏子も目を覚ましていた。

「なんでうちでヤるかな」

「いいじゃない。文句いわない」

 靖男は枕元のリモコンを手に取り、ステレオの電源を入れて音楽を流す。

「サチヨちゃん、こんなとこに住んでるのぉ? もっといいトコに住めばいいのにー」

「静かにしてよ。近所迷惑でしょ」

 はばかりのない男の大声と低めた女の声が今井家の玄関先を通過する。さっきまで近所中に聞こえるほど騒いでいたくせに、さすがに隣には遠慮するのだろうか。

 女は、隣の早川琴美だ。時々こうやって男を連れ込む。恋人なら眉をひそめる筋合いではないが、相手は毎回のように違う。

(ヤリマンが)

 内心で毒づいていると、早々と体がもつれ合うわずかな振動と嬌声が壁越しに伝わってきた。それを少しでも打ち消すための音楽だが、やはり耳と勘に障る。

「なんでわざわざ自分の家に客を連れてくるんだろうな」

「お客さんかどうか、わからないでしょ」

「客に決まってる。『サチヨちゃん』ってなんだよ。店での名前だろ。ひっかえとっかえだ」

「ちょっと惚れっぽいのよ」

 靖男は貶し、杏子は庇う。いつもこうだ。

「ホテルにいけばいいのに。どうせ男が金出すんだしさ」

「もう、いつもいつも同じこと言わないの」

 杏子も以前はバーで働いていたらしく、夜の街の女性には同情的で理解があった。また、少し前に琴美に助けられたことがあった。それがきっかけで二人は仲良くしている。

「この子が生まれたら夜泣きで迷惑かけるんだから。お互い様でしょ」

 杏子はすぐに眠りに戻り、靖男はタオルケットを頭からかぶって隣の部屋に背を向けた。

 こんなことで不機嫌になる自分は心の狭い人間なのだろうか。

 父親としての自分の先行きがまた不安になってくる。



 今夜の相手は最近店の常連になった五十近い男だ。なにかの会社の部長だと自慢していた。

 玄関へ入るなり男は琴美の唇を吸ってきた。この場で押し倒されそうな勢いだ。

 できればシャワーを浴びさせたかったが、諦める。

「こっち」

 琴美が男ともつれながら移動した先は居間だった。

 離れたがらない男に苦労しつつ、灯りをつけてクーラーを入れる。

 男は居間のど真ん中に置かれたベッドに驚いた。

「ここで寝てるの?」

「そう。ラブホテルみたいでしょ?」

 男は『そういう女なんだな』と上に立ったような顔になる。

 琴美はベッドに倒された。

 ベランダに続く掃き出し窓には薄いレースカーテンだけが中途半端に引かれている。

 灯りを消そうとする男を琴美は引き止めた。

 ここは二階だ。ベッドに横になれば下からそう見られるものではない――そう考えたのか男はそのまま情事を始めた。琴美の体をねぶり、自身をねぶらせ、挿入して腰を蠢かし、一方的に果てて、引き抜いた。

 しぼんだ一物の先で、薄膜に溜まった精液が間抜けに揺れている。

 肉欲も出しきったのだろう。男の顔から先ほどまでの野卑さが消え、今はバツの悪さが染みだしてきている。きっと脳裏には家族の顔がよぎっている。

 見覚えのある表情だ。あの男もそうだった。情事のあとの、落ち着かない様子。女性経験の少ない男のウブさだと勘違いしていたのだから、恋は盲目とはよくいったものだ。

 大量のティッシュで股間を拭っている男の背中に声をかける。

「シャワー浴びる?」

「い、いいよ」

「アタシのシャンプー、使うー?」

「いいって」

「こんな時間にさっぱりして帰ったら奥さんに怪しまれちゃうもんね」

「それじゃ帰るから……」

 ろくに目もあわせないまま、男は去っていった。

「ちっちゃい男……」

 感じているフリが板についてきたものだ。失笑と自嘲がこみ上げた。

 下着をつける。体を動かすと男の舌が這った跡が乾き、肌が突っ張った。ナメクジを連想する。

 煙草に火をつける。

 部屋中に中年男の臭いが溜まっていた。紫煙が混じってますます不快になる。

 下着姿のまま堂々と掃き出し窓に近づき、レースカーテンも窓も全開にする。

 正面に建つアパートをにらむ。

 むかい合う恰好で建っているため、目の前にむこうの居間がある。ベランダに面した掃き出し窓には厚いカーテンがかかっていた。しかし隙間から光が漏れている。

 カーテンが少し揺れた。

 情事が始まる前から、琴美はそこからの視線を確かに感じていた。

 弁当屋ではお高くとまっているあの女が、自分を凝視している。

 それは琴美にささやか達成感を味あわせた。

「アンタの旦那もさっきのヤツぐらい分かりやすい男だったら、こんなコトにならなかったのに」恨みがましくつぶやいて、やはり自分を(わら)う。「アタシに男を見る目がなかっただけよね」

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