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吠えない蝉  作者: 野間義之
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7

 日も暮れた八時近く。

 帰宅ラッシュが過ぎて座席もたまに空いているのだが、それでも靖男はいつも立っていた。

 仕事で頭や神経は疲れるが、体はそうでもない。平時でも訓練訓練と常に体を動かし続けていた元自衛隊員としては、もう少し肉体的な疲労がほしいところだ。

 とはいえスポーツジムに通うのは贅沢に思えるし、なにより今は妊娠中の妻杏子と離れているのが落ち着かない。早く我が家に帰りたかった。

 だから電車やバスではいくら席が空いていても立つことにしていた。せめてものカロリー消費だ。

 通勤電車では行きも帰りも必ず西を向いて立った。そしてあの家が近いと見当をつけた付近に電車がさしかかると、そっと目を閉じてうなだれる。

 傍目には疲れて力が抜けているようにしか見えない。しかしそれは黙祷だった。

『松川修也さん、どうか(ゆる)してください』

 靖男は欠かすことなく、こうしてせめてもの謝罪を続けていた。



「ただいまー」

「おかえりー」

「わざわざ来なくていいって」

 結婚して三年経つが、今でも杏子は靖男を玄関まで出迎えに来る。亭主冥利に尽きるが、当分は控えてほしかった。

 台所から慎重な足取りでやってくる杏子のお腹は、靖男をハラハラさせるには充分なほどに大きくなっている。

「体は? 問題なし?」

「順調順調」

 お決まりの確認に杏子は笑顔とピースサインで答える。

「今日も動いた?」

「うん。元気元気」

 ほら、と突きだされた杏子のお腹に手を当てるが、なにも感じない。

 「蹴ってる」「あばれてる」と杏子が声を上げる度に急いでお腹に触れてみるが、子供の胎動を感じたことはまだない。まるで靖男の手が見えるかのように動きを止める。

 お腹の一部が内から押し上げられて突き出る瞬間を目にしたこともある。間違いなくそこに我が子がいる。それなのに自分の手で実感することが出来ない。

 はじめのうちは笑いの種になるが、ここまで続くとさすがに笑えなくなってくる。

『さわるな』

『おまえが父親なんて嫌だ』

『おまえに父親になる資格なんてない』

『人殺しのくせに』

 我が子に全てを見透かされ、責められ、拒まれているようだ。やりきれなさに襲われる。



「仕事、大丈夫?」

 食事中に杏子が訊いてきた。

「おう。大丈夫。なんで?」

「ヤスさんがスーツで事務員なんて、やっぱり似合わないなーって」

「またその話……」

「だってせっかく自衛隊でいっぱいいろんな免許取ってるのに」

 杏子にしてみれば、手に職とも呼べる数々の資格を活かせない事務職に転職した夫の選択は腑に落ちないのだろう。口には出さないが、もっと稼ぎのいい職に就くと期待していただろう。



「自衛隊を辞めたら、資格はすべて失効することになる」

 除隊を申し出たあくる日に上官の村上にそう告げられて、靖男は耳を疑った。

「なぜです?」そんな話は聞いたことがない。

「今井の場合、前例のない特殊な任務に関わったからな。他の隊員とは扱いが変わってしまう」

「そんなことは聞いていません。それに命令違反したわけではありません。遂行したではありませんか!」

「あの任務については秘守義務がある。自衛隊を辞めても同じだ」

「それはわかってます」

「その一環だ」

「資格は関係ないでしょう」

「自衛隊員だった記録そのものが抹消されるからだ」

「はぁ!?」さすがに態度から遠慮が薄れた。「なんですかそれは!」

「自衛隊が『代行』に関わったことを世間に知られるわけにはいかない。万が一を考えての措置だ」

 村上の目が泳いでいる。彼自身も納得していないことを口にしているのだろう。

 あのような任務でもこなしてしまった靖男は便利な人材だ。除隊を翻意させるよう村上も上から命令されているに違いない。

 自衛隊で取得した資格を除けば自動車の運転免許しか持たない三十前の男が簡単に再就職できるような景気のいいご時世ではない。

 自衛隊に残るしか食っていく道はない。辞めたら女房ともども路頭に迷うことになるかもしれないぞ――そう暗に脅されているのがわかった。

 それでも靖男は自衛隊を辞めた。

 もうあんなことはしたくなかった。



 資格どころか自衛隊員としての経歴すら失っていることを杏子に打ち明けられずにいた。

 説明するには靖男が自衛隊員として遂行したある任務に関して言及しなくてはならない。それは絶対に避けたかった。

「仕事はなんだっていいよ。毎日きちんと家に帰れて、子供と一緒にいられればそれが一番」

 靖男の言葉は嘘ではない。杏子も靖男の生い立ちは知っているので納得してくれる。

「そうだね。自衛隊は偉くなったら転勤ばっかりだし」

「そうそう」

「それに最近はうなされることも少なくなったしね」

 杏子は嬉しそうに指摘するが、靖男にとっては少し複雑な思いがする。

 自分は罪悪感も長続きしない酷薄な男なのだろうか、と。

 自分も父に似てろくでもない男なのだろうか、と。

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