67 エピローグ
二〇一五年八月十六日。
日本國は五度目の蝉が鳴かない夏を迎えていた。
しかしこの横浜の街中では元々蝉の声を耳にするのはまれだったため、いまそれを殊更に気にかけている者はいないだろう。
志村透もそうだ。ビルとビルの隙間で一八〇センチの長身を屈めていた。金髪の逆立ち具合のチェックに余念がない。
「今日は三曲ぐらい最後まで演りてーな」
鏡をベースギターのケースにしまいながら透が冗談半分にぼやくと、傍らの相棒は仏頂面で大真面目に返してきた。
「だったらその金髪をどうにかしろよ。演る前から『私、要注意人物です』ってアピールしてるようなモンじゃないか」
「ロックはまず目立ってなんぼだろ」
「まずは演奏! 次にメッセージだろ!」
「もっと柔軟になろうぜ智朗」
ふん、と鼻で応えると松川智朗はギターのチューニングに戻った。
ここは横浜駅にほど近い南幸区。映画館や東急ハンズなどがあり人出の多い街だ。
前述した通り、二人はビルとビルの隙間に潜伏している。
ベースの透とギターの智朗。これから二人で路上ライブだ。
二人が一緒に音楽をやるようになって三年近くになろうとしている。
出会いは最悪だった。自分の演奏を笑った智朗をちょっと痛い目に合わせてやろうと絡んだはいいが、逆にパンチひとつでのされてしまった。
透はその仕返しに、智朗を待ち伏せしてナイフで刺した。
今にして思えば恐ろしいことだが、そのときは法律で許されているのだからと深く考えもしなかった。
智朗は自分を殺そうとした透を赦しただけでなく、一緒に音楽をやってほしいと誘ってきた。
(コイツ、馬鹿かよ)
透は驚き、呆れた。しかし立場上の断りづらさと、松川智朗への興味で誘いに乗ってみた。
自己流だという智朗のギターはみる間に上達していった。歌声も悪くない。
しかし無愛想で、人前での恰好にも無頓着。ウエーブがかったクセっ毛ももう諦め気味でボサボサだ。
その分透が洒落た恰好でMCやパフォーマンスに力を入れると「媚びている」と文句をたれる。面倒くさい奴だ。
襟首がくたびれ始めたバンドTシャツにデニムとスニーカーという普段着じみた智朗と、モッズファッションなスーツスタイルの透――このギャップをどうにかしなくてはと透は密かに悩んでいた。
始めは互いの好きな曲をコピーしてそれぞれヴォーカルを受けもった。
そのうち智朗が好きな洋楽に独自の日本語歌詞をつけて歌い始めた。積極的にオリジナルの曲も作るようになった。それらはライブでも評判がよく、透としても智朗の才能を認めている。最近ではヴォーカルをほとんど任せている。
かといって智朗は調子に乗るでもなく、ベースラインは透に任せて口出しなどしてこない。議論しても納得すれば受け入れる素直な一面もある。一緒にやっていて悪い気はしない。いい関係だと感じている。
演奏していて楽しい。
しかし公殺法が施行されて以来、この日本國は息苦しい。不寛容が溶けこんだ空気は劇薬の霧のように眼や鼻や肌を常に微かに灼いてくる。
ちょっとしたことで命に関わる揉め事になるのではないかと誰もが警戒し、怯えている。そのくせ見逃さないようにアンテナを張っている者も多い。
店内のBGMが好みではないという理由で公殺沙汰になることもあり、屋内屋外を問わず街はどんどん静かになっていく。
そんなご時世で路上ライブなど、たとえ自己責任自業自得でもそうそう歓迎されるわけがない。自分の店先で人が死ぬなど、大体の人間なら御免こうむる話だ。
ライブハウスなどの同好が集まる場で演奏すればいいものを、智朗はあえて街に出てゲリラ演奏じみた活動を選んでいた。
智朗曰く「同じ相手ばっかでつまらないし、それじゃ意味ない」
最近は路上でのゲリラ演奏で数曲演奏しては逃げるということを繰り返している。
「音がうるさい」「歌詞が気にくわない」「顔つきが生意気だ」難癖の種はいくらでもある。それを覚悟しての路上ライブとはいえ物騒な目に合うことも多い。胸倉を掴まれ、アンプを壊され、トカゲや蛇を投げつけられたこともある。警察からも厳重注意を繰り返し受けてきたせいで今では目の敵にされてしまっている。
これには「どうせドラムがいなくて身軽なんだから逃げやすくていいだろ」と智朗は笑う。
しかし、いつかメンバーを増やしてバンドをやるのが三人の目標だ。
「ただいまー」
隙間に飛び込んできた三人目は城戸明日美。智朗の彼女だ。とにかく明るく行動的、音楽の趣味も智朗と合うようだ。
「はい!」
智朗と透にスポーツドリンクを差し出してくる。
「いいよ。汗になるだけだし」
「だから飲まなきゃダメでしょ。熱中症になったら逃げられないよ!」
智朗に強引にドリンクを飲ませる。
なにかと面倒くさくて扱いづらい智朗も明日美にはわりと素直に従う。
「透さんも!」
「はいはい」
透も明日美には頭が上がらない。なにしろ明日美がいなければ透は智朗を本当に殺してしまっていたかもしれないのだから。
ちょうど三年前のあの晩、透は長後の駅で待ち伏せして智朗の横腹を刺した。一緒にいた明日美が邪魔でまずはそこを刺すことにした。
ナイフを抜くと刃を横に倒す。こうすれば刃が肋骨の隙間をすり抜けて心臓に届きやすくなるとインターネットで知ったからだ。
しかし今度こその二撃目は智朗の胸には届かなかった。そばにいた明日美が割り込んできたからだ。ナイフは明日美が抱えたギターケースに突き刺さる。
動揺する透に智朗が体当たりしてきた。刺されたとは思えない力に透は智朗もろとも転倒した。
そこへ明日美の父親が乱入してきた。帰ってこない娘を心配して探し回っていたらしい。
「なにやってんだ!」
明日美の父親に羽交い絞めされるまでもなく、透は智朗の気迫に完全に呑まれてしまった。
「よし、行くか」
智朗がギターを担ぐ。父親の形見だというアコースティックギターには二つの刃物傷が刻まれている。
ギターのボディを人間の体になぞらえるなら、左胸と右横腹の位置だ。後者のそれは、二年前に透のナイフがつけた傷だ。
奇しくも父子と同じ場所に傷を負ったそのギターは人目を惹く。
「アレって、歌を邪魔しようとする人に襲われたけど、そのたびにギターが守ってくれたんだって」
そんな当たらずとも遠からずな噂話がいつの間にかつきまとうようになっていた。
智朗のギターを目にするたびに、透は負い目に苛まれる。これからもそれは続くのだろう。それでも、もう覚悟の上だ。
「おっしゃ!」
透もベースを担ぐ。明日美が小型のアンプを持った。
三人が飛び出そうとした時、子供がビル影に入ってきた。
二歳か三歳ぐらいだろうか。見知らぬ男の子だった。
「どうしたの?」
屈みこんだ明日美が目線を合わせて尋ねると、男の子ははにかみながら白い封筒を差し出してきた。
「くれるの?」
男の子は頷いた。
「智朗くんにだって」
「オレ?」
智朗が手紙を受け取る。たしかに『松川智朗様』と書かれている。
「おーおー、よかったな智朗、ファン第一号じゃね?」
「ぶー! 智朗くんのファン一号はわたしですからねー!」
透がからかうと、明日美が男の子の脇腹を指でくすぐった。
男の子は身をよじらせてキャッキャと笑う。
「やめろよ明日美」
苦笑する智朗は封筒を裏返して送り主を見る。息を呑み、まじまじと男の子を見た。
笑いやんだ男の子がお菓子の箱を明日美に渡した。
「これもくれるの?」
「うん。あげる」
男の子が去っていく。幼い足取りが心配で明日美はあとを追った。
男の子は雑踏に迷うことなく、両親と思われる二人の元に辿りついた。
明日美は彼らを見て、足を止めた。
両親は深く頭を下げ、男の子がバイバイと手を振った。
その光景を智朗も見ていた。
親子の背中が小さくなっていく。
智朗は封筒から便箋を取り出す。
「おい、ファンレターはあとにしろよ」
透はじれるが智朗は「ちょっとまって」と真剣な面持ちだ。
戻ってきた明日美の瞳が潤んでいる。
智朗が明日美に手紙を渡す。明日美は男の子から貰ったお菓子の箱を智朗に渡す。
箱の中には――
「おー、蝉じゃん!」
肩越しに覗きこんだ透が歓声を上げた。小ぶりだが蝉の抜け殻が入っていた。
「もしかして今年のとか? だったらスゲーレア物じゃん!」数年ぶりに目にした夏の風物詩に透は興奮している。
手紙を読み終えた明日美が嬉しそうに智朗の胸を小突いた。
「ジンくんだって」
「うん」親子が歩いていった方をみつめながら智朗が応える。
「かわいかったね」
「かわいかった」
「『イマジン』だね」
「はぁ?」
「だから、今井仁、イマイジン、『イマジン』」
「うわ、ダジャレかよ」
「あんがいそうかもよ」
「ないない……」
二人の秘密めいた会話を交わす智朗と明日美に、透はおどけて割り込む。
「なに? “イマジン”演るの?」
「いいね、演って演って!」
「練習もしないで演れるか」
「はいはい、真面目真面目」
透は肩をすくめる。
ビルの隙間から駆けだした智朗と透はビブレの斜め前にある広場状の橋で止まると、明日美はアンプを置いてベースとつないだ。
ボン、と合図のように低音が一発、辺りに響く。
口コミや仲間内の情報で二人を待ち構えていた幾人かが近づいてきて歓声を投げてくれる。
それにつられて通りがかりの幾人かが足を止める。
予定通り開始のカウントを待っていた透は、智朗がいきなりギターをかき鳴らし始めて面食らう。
Em、C、G、Dの小気味よくそれでいて焦燥感を帯びたスタッカート。
(予定とちがうじゃんかよ)
それでも透はゴキゲンだ。この曲――“ロンドン・コーリング”のベースリフは最高だからだ。
智朗は歌う。
ボンと弾け飛んでくぜ
パンドラの上澄みが
ゾッとしねーぜ 穴ふさぐ
御国自慢の処世術
いい子ちゃんだね オマエら
いつも にこにこ いい笑顔
いい子ちゃんだね オマエら
口をつぐんで やり過ごす
配慮に遠慮 絆に愛
胃が溶けて落ちそうだぜ
ヒヤリばかりの毎日で
夏を知らずに眠ってる蝉
少しずつ、智朗と透の周りに人が集まり始める。
その様子を見守る明日美の手には、手紙と箱が大事に握られている。
一曲目が終わり、拍手が湧いた。
それが収まりかけた時、懐かしい吠え声を聞いたような気がした。
「蝉?」
透は空を見上げた。




