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明日美はまだ公園に残っていた。智朗は頑として帰ろうとせず、仕方なく彼と並んでべンチに座っていた。
時刻は夜の十時半近い。両親や祖父母は今頃心配しているだろう。電話をかけてこようかと迷ったが、公衆電話を探している隙に智朗がどこかに消えてしまうような気がして離れられなかった。かといって智朗が預かったという今井靖男の電話を使うことも躊躇われた。
智朗は今井靖男の携帯電話を手に黙りこくっている。なにを話しかけても心ここに在らずな生返事だ。
智朗が帰らないのならば、気がすむまでここにいさせる。自分も一緒にいると決意したものの、手ごたえのないやりとりに明日美の口数も減っていき、疲れのせいでウトウトとし始めた。それでも、逃がさないように智朗のTシャツの裾を捕まえておく。
不意の電子音に明日美は大きく震えて目を覚ます。
今井靖男の携帯電話が鳴っている。フリップを開くと、着信の相手は『杏子』となっていた。
「アイツだ」
智朗は立ち上がって明日美の指を振り離すと、数メートル離れて通話を始める。
「もしもし……まだいる」
しばらく「あー」とか「わかった」とか無愛想な相槌を打ち、やがて智朗は電話を切った。
「なんだって?」
「ここに来る」
「えー!?」
本当に戻ってくるとは予想外だった。
「おまえ、帰れ」
「いや」
「勝手にしろ」
智朗はベンチに座り直し、ギターケースを明日美に差しだしてきた。明日美はそれを抱えてまた隣に腰を下ろす。
智朗はまた黙っている。これまでと違い、まるで試合直前のアスリートのようなナーヴァスさを漂わせている。
十分ほどして、公園の入り口にタクシーが止まった。
大柄な男が一人、降りてくる。
杏子というあの妊婦は、お腹の子供はどうなったのか。
最悪の想像に、明日美は智朗の手を取った。
智朗は今井靖男を見据えたまま一度強く握り返した。そして――
「ここにいろ。頼むから」
手をほどいて歩き出した。
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公園の中ほどで、二人は再び対峙した。
智朗は仇の左手の怪我を見た。出血は止まっているようだ。病院へ行ったはずだが、手当はしていない。ミミズ腫れの走った顔を見ると素直に胸が痛んだ。
仇の右手にはタオルでくるんだ物が握られている。
(あのナイフだな)
仇の表情は固く、心中が量れない。とにかく明日美に危害が及ぶことだけは絶対に避けなくてはならない。
「奥さんと、子供は? 大丈夫……大丈夫ですか?」
智朗の敬語に、強張っていた仇の表情がぎこちなく緩んだ。
「ああ、ちょっと興奮して血圧が上がったのが原因らしい。とりあえず一晩入院するが、問題はなさそうだ」
「そうですか……」
安堵する智朗。
「お腹の子に触ったよ」
なにか感慨深げな仇の言葉。
智朗が応えに窮していると、仇が近付いてきた。身構える智朗の足元に、手にしていた物を置いて、また下がった。
智朗が拾ってタオルを取る。やはり、あのナイフだった。
「殺してくれ」
仇はそれだけ言うと、胸を張り出し、手を後ろに組み、目を閉じた。
大きな体が小刻みに震えている。
智朗はナイフを足元に落とした。
ナイフは地面に刺さりかけて、結局は倒れた。
「殺さないよ。オレは殺せないよ」
智朗の言葉に今井靖男が目を開け、体から力を抜いた。
「赦してくれるのか?」
「赦せねぇよ。たぶん、一生、アンタを恨むし、憎むよ。でも、アンタを赦せるのは、オレでも母さんでも、裁判長でも、法律でも国でもない。父さんだけだ。オレの父さんだけだ! アンタを赦せるやつなんてもうこの世にいないんだよ」拳を握り、言い放つ。「アンタや、人殺しがしたことは、そういうことだ。もしアンタが死んでも、オレは憎み続ける! 恨むよ! 忘れない! アンタが生きてても死んでても同じなんだよ!」
明日美と歌ってからずっと考えていたことを、まとまらないままに言葉にする。
今井靖男は唇を引き締め、うな垂れていた。
「アンタを殺したら、父さんや母さんが喜ぶか悲しむか、わからなくなった。だって、父さんも母さんももういない。オレを誉めてくれる人も叱ってくれる人ももういないし、アンタを赦していいって言ってくれる人もいない。だから、悪かったよ、アンタの奥さんと子供、苦しめたこと。アンタこそ、オレが憎いならオレを殺せよ。それだけのことしたって、今は思えるから、殺したいなら、殺せよ」
智朗はナイフを今井靖男の足元に蹴り、ズボンのポケットに両手を押しこんで棒立ちになった。
後ろで明日美が息を飲む気配がした。
「あいつには絶対に手を出さないでください。あいつはオレを止めにきただけです」
智朗の言葉が終わるよりも早く、今井靖男が詫びてきた。
「すまない。本当にすまない」涙を散らして、今井靖男はへそから体を折って頭を下げた。「すまない! すまない!」
「こっちこそ、すみませんでした。もう、二度とアンタたちの前には姿を見せませんから」
智朗は踵を返して明日美の元へ戻る。
「帰ろう、明日美」
公園から高座渋谷駅までの短い距離を、智朗は明日美の手を引いて歩いた。反対の手に持ったギターケースが随分軽やかに感じた。
公園を出際に振り返ると今井靖男はまだ頭を下げたままだった。智朗が頭を下げ返すと、隣で明日美も頭を下げてくれた。
駅のホームで時計を見ると十一時を過ぎている。
どちらのホームにも、智朗と明日美の他に人の姿はなかった。
二人はベンチに座って電車を待った。安堵で気が抜けたのか明日美は放心したように力の抜けた様子で黙っていた。
腰を下ろした智朗は疲れと眠気、そして憑き物が落ちた心地に包まれていた。電車が来たら立ち上がらなくてはない――それさえ億劫に思えた。
「智朗くん」
明日美が前を向いたまま、弱々しく名を呼んだ。
公園を出て、初めて口を開いた。彼女はずっと握り合っていた手を放すと、腿に置いた。
「うん?」
待つが、明日美は黙ってしまう。
ただならぬ様子に智朗も黙って待った。
ややあって消え入るようなか細い声で彼女が告白した。
「わたしもね、殺したの」
明日美はうつむき、唇を噛んでいる。腿の上で握りしめた両手が震えている。
「殺したって、誰を?」
「赤ちゃん」
「……誰の?」
「わたしの」
絶句する智朗。
「ちがうよ。智朗くん……じゃない」
明日美には自分以外にそういう関係の相手がいたということか。横なぐりの雨のような告白は続く。
「そういう目に遭ったの。去年、あっちで」
言葉が出せない智朗を待たずに、明日美は続けた。
「日本人は外国人は殺せないんだろう。だから怖くなんかないって……殺そうと思えば殺せるのに。ううん、そういう問題じゃないのにね。くやしいよ。迷ったけど……」
明日美の手に、彼女の涙が落ちていく。
その手に、智朗は自分の手を重ねた。自然と、そうした。手の平で明日美の涙のあつさを感じた。
智朗の手に明日美の涙が落ち続ける。
「ごめんね……わたしなんかが、えらそうなこと言って。でも……」
声を絞り出す明日美の脇腹を、智朗はそっとくすぐる。
明日美は驚いて体をひねる。
「ほかにオレに言うことあるだろ?」
智朗が訊くと、明日美は目を真っ赤にして、首を傾げた。
「今日さ、オレ、誕生日なんだけど? まだ、今なら間に合うぞ?」
「そうだった! おめでとう! プレゼント準備してたのに学校からまっすぐ来ちゃったから!……」
「とりあえず、顔拭け。これから誕生日のたんびに鼻水ダラダラの明日美の顔思い出すのは勘弁な」
明日美は智朗の肩を掴んで回れ右をさせると、その背中に自分の顔を押し付けてきた。
「おい……オレ汗くさいし」
智朗の抵抗を無視して明日美はしばらくそうしていた。
「これでどうだ!」
顔を離した明日美は真っ赤な目で、それでも笑顔を作って見せてくれた。
「まぁ、合格」
「むっかつく」明日美は智朗の坊主頭を両手で磨くように撫でまわす。「なにこのマイケル・スタイプ!」
「あれはハゲじゃん!」
二人は吹き出した。
「去年も今年も、散々な誕生日だよ」
「来年笑えばいいんじゃない?」
「おっ、いいこと言う」
ベルが鳴り、電車がやってくるとアナウンス――二人は立ち上がった。
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長後駅の駅舎を出て、自転車置き場へ向かう。
「あーあ、帰ったら大目玉だよ」
明日美がぼやくと、智朗がニカリと笑った。
「だったらウチに泊まるか?」
「なんの解決にもなってないし。ていうか、もうそういうオーラ出してくる? 今の顔!」
「なんだよ」
「智朗くん、一緒に謝ってよ」
「いいけど、それもややこしくなりそうじゃ……」
誰かが明日美のかたわらを駆け抜けて智朗にぶつかってきた。智朗の表情と言葉が止まる。
明日美の知らない青年だった。背が高く、金髪だ。智朗の友達がふざけてきたのだろうか。
「いっ!……」
智朗は痛がり、身をよじった。どす赤い滲みが右の横腹から垂れ広がっていく。押さえた智朗の指の間から血が滴り始める。
落ちたギターケースが明日美の足に当たる。
離れた金髪の手にナイフが握られている。明日美はなにが起きたかを理解した――智朗が刺された。
智朗はうずくまりながらも顔を上げ、刺した相手をにらみつける。
「逃げろ!」
智朗の叫びに明日美がようやく我に返ったとき――
金髪の青年がナイフを構えて再び智朗に突進していった。




