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吠えない蝉  作者: 野間義之
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 救急車を見送った琴美(ことみ)は、ようやく肩から少し力を抜いた。

 付き添いたい気持ちもあったが、昨日救急車に乗ったばかりの自分が付き添うのも(げん)が悪い気がした。

 もし入院となれば、着替えも必要になるだろう。今度は自分がそういったことを引き受けるつもりで靖男から鍵を預かった。

 連絡があるまでは自宅で待つとして、とりあえず充電中の自分のスマホを取りに今井家に入る。

「あのコ、なんだったのよ」

 謎の少女を思いだし、その彼氏トモロウ少年とやらのことを考える。

「どうなったのやら」

 しかし、他人の心配をできるご身分ではない。

 自分はどうするのか。

 幸世に殺されることはない。

 自殺も未遂に終わった。

 ともかく、この町は離れよう。それがせめてもの罪滅ぼし、いやそれ以前に、ここで暮らしたことが間違いだった。

 無力感につぶされるように床に座りこんでスマホを手に取る。さっきは無我夢中で無視したが、着信が入っていたことを思い出す。

 履歴を確かめると実家からだった。二十数回入っている。これだけ入れば、バッテリーがなくなって当然だ。

「なんなの」

 さきほどの焦りを思いだして腹も立つが、これだけしつこく電話をかけてきた理由が気になった。まさか実家でなにかあったのだろうか。

 留守番メッセージも何件か残っていた。

 順番に再生していく。


 父の声だった。

『病院から連絡の来た。おまえ、なんばした? 自殺や? バカが!』

 唾が飛んでくるような勢いでそれだけ吹き込まれていた。


「ああ、そういうこと……」

 これから延々と一方的に説教され続けるのかと思うとげんなりしてきた。

 聞かずに消してしまおうかとも思ったが、結局聞くことにした。

 今は罵倒ぐらいされたい気分だった。

 ――殺されてお詫びせい! そん人が殺しきらんて言うないば、我がから死ね! そいもしきらんないオイが殺してやっ!

 かつての父の言葉を思いだす。

 こうなれば、父に殺してもらえないだろうか、と投げやりに思った。


『ほんなごて、おまりゃ、どいしこバカじゃ。相手が殺しにこんない抜け抜け生きとかんか! 昔から親の言うこってんいっちょんきかんクセ、こがんことばかい言うごとしてから』

『一人でどがんもならんないば、オイも一緒に謝いにいく』

『どがしこバカなことしても、おまりゃうちん子じゃ』

『そがんキツかない、帰ってこい』

『こっちは、蝉も鳴きよっぞ』


 じょじょに優しく、弱々しくなる父の声。琴美は嗚咽を堪えて、両手でスマホを包みこんだ。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 救急車で病院へ到着したものの、靖男(やすお)はまったく安心などできなかった。

 搬送されたのは総合病院だったが、運悪く産科婦人科の医師は不在だった。

 そこで担当医は電話で専門医と、杏子(きょうこ)のかかりつけの産婦人科医院に相談しながら処置をしているようだった。

 自分と同年代の若い担当医に不安を覚えるが信じて任せるしかなかった。

 靖男は処置室から追い出されて、廊下の椅子に座ったり立ったりを繰り返していた。

 もしこのまま杏子やお腹の子供になにかあれば、靖男はあの少年を――松川トモロウを赦すことができるだろうか。

 人を殺したことで生き方を変えるほどの罪悪感にかられていたというのに、今またこうして簡単に殺意を抱いてしまう。

 父を殺され、母を失ったあの松川トモロウが自分を殺すほどに憎んでなにが悪いというのか。

 結果はこうなってしまったが、松川トモロウは杏子や子供に極力危害を加えないようにしていたようだ。

 靖男さえ殺せば、さらに杏子や子供まで殺そうとはしないだろう。

 それならば――

「俺が死ねばいいのか……」

 簡潔な答えだった。

 つぶやいたそのとき、ドアの隙間から看護師が顔を覗かせた。


 処置室に入ると、診察台の周りはカーテンが引かれて杏子の姿を見ることはできなかった。

 カーテンのむこうから看護士の助けをかりて杏子が着衣を直している声と気配がした。

 医師が靖男に説明した。

「奥様にお話をうかがったところ、驚くことがあって興奮したとか。それが原因でしょう。もともと若干血圧が高めなようですので、おそらくそれも関係しているのでしょう。ひとまず安定しましたので」

「子供は?」

「大丈夫です。心配いりませんよ」医師は元気づけるように靖男の二の腕を叩いて、左手の傷を目にとめる。「それより貴方のほうが」

 医師が不審げに上から下まで靖男を見た。顔には幾筋もの太く赤いミミズ腫れ、左手の小指の付け根と手首の中間付近が、手の平から甲にかけてざっくりと切れていた。スラックスは膝から下が泥で汚れている。どうみても暴力沙汰の跡だ。

「とりあえず貴方の顔と手を診ましょう」

 しかし靖男はカーテンのむこうに目を向けて断った。

「あとででいいです」

 手の出血は止まっている。顔の腫れも痛みを気にするほどではない。

「ではあとで。時間が経つと縫えなくなりますから早めに。用心のため奥さんは今夜一晩入院していただきます。あとでまた案内に来ますので」

 医師はカーテンから出てきた看護師に「もう少しここにいて。なにかあるといけないから」と聞こえよがしに指示を残して去っていった。当然靖男による杏子への暴力も疑っているのだろう。

 靖男は大きく深呼吸をしてカーテンを越えた。

 杏子は診察台に横になり毛布をかけられていた。やや顔色は悪いものの目や表情には力が戻っていた。

 責めるような、警戒するような表情で靖男を見た。

「大丈夫か?」

「うん」

 靖男がかたわらに立つと、杏子は目を逸らした。

 カーテン越しに看護師の気配を感じる。

「ごめん」靖男が頭を下げた。小声で続ける。「多分、あの子たちから聞いたと思うけど……」

「今日はやめて。せっかく治まったんだから」

 靖男が絞りだす告白を杏子が遮った。

 二人の間に沈黙が落ちる。

「手……」

「平気だ」

 靖男の怪我に気がついた杏子がその手をそっと取った。彼女の手首には結束バンドの跡が赤いすり傷となって残っていた。

「あの子は?」

「大丈夫だ。殴っちまったけど」

「なにやってるの!」

「ごめん」

「警察とかダメだからね……」

「わかってる」

 自分と松川トモロウが決着をつけなくてはならないのだから。目指す着地点も見えている。

 杏子が顔をしかめた。

「先生呼ぶか!?」

 杏子は首を振り毛布をのけると、握っていた靖男の左手を自分の腹の上に置いた。

「あっ……」

 靖男は情けないほどに狼狽した声をだしてしまった。

 手に胎児の動きを感じた。

 魚のひれが水面を盛り上げるような、小さな膨らみが靖男の手の平の下で生まれて、すぐに消えた。

 手だったのか足だったのかわからないが、それでも充分だった。初めて感じた、我が子の実在だった。

 靖男の胸中で覚悟が決まった。

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