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明日美は走った。
駅からの目抜き通りはすぐにわかった。ここを駅の手前で曲がれば公園があるはずだ。
むこうから大柄な男性が走ってくる。見覚えがある。きっと今井靖男だ。呼び止めて智朗のことを尋ねてみようか。しかし血相を変えて駆け来るその様は鬼気迫るものがある。邪魔すれば殴り倒されてしまいそうだ。
すれ違いざまに今井靖男の筋骨隆々とした体躯を見て、
(勝てるわけない!)
智朗の向こう見ずにあきれた。
それでも、人質を取るような真似をしてでも挑まずにはいられなかった智朗の胸中を思うと、また鼻の奥がうずいた。
公園に着くと、智朗はすぐに見つかった。照明灯に照らされて、奥のベンチそばで地べたに座り込んでいる。ぽつねんとうなだれている少年の傍らでギターケースが口を開けて寄り添っている。
足音に智朗は顔を上げた。顔を赤く腫らしている。鼻や口の周りに血の拭き跡が、乾きかけの刷毛で塗ったように薄らと残っている。呆然としているようだが、目元だけは固く吊り上がっている。
明日美を一瞥して、また顔を伏せるとつま先に「あの人は?」と訊いてくる。
「わかんない。ぐったりしてたけど救急車来そうだったから……」
「もしかして子供産まれるとか?」
「だったらまだいいけど……」
母子の命に関わる状況かもしれない――その可能性が智朗を打ちのめしているのが見えるようだ。
明日美はしゃがみこむ。息が上がり、汗が吹き出る。
「おまえら、なんで? どうやって?」
「お隣さん、なのかな? 女の人が来て助けてくれた」
「あー」智朗は強がるように舌打ちして吐き捨てた。「よけいなことするんじゃなかった……」
意味はわからないが、今は訊くのはやめておこうと明日美は思った。
智朗が無事で、今井靖男も無事なのだ。あとは、あの杏子という女性とお腹の子が無事であることを祈るだけだ。
そして――
明日美は深呼吸してさらに智朗に近づき、顎を掴んで上を向かせると、全力で殴った。
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こっちは一年がかりの計画があっさりと失敗して途方にくれているというのに。
いきなり拳で殴られた。
帰って来るなとメールしたのに日本國に帰ってきて。
来るなと言っても懲りずに家に来て。
庭でギターまで弾いて。
今日もどこをどうやってきたのか仇の家にまで現れて。
「なんだよ!」
智朗は怒鳴って立ち上がる。つい手が出た。明日美の頭を手の平で叩く。
しかし明日美も負けてはいない。彼女も立ち上がり、ビンタをしてきた。何度も何度も、顔の腫れなどお構いなしに平手が飛んでくる。
智朗はぶたれながら、どうにか明日美の両手を掴んで止める。
「なんだよ! なんだよ!?」
「復讐とか仕返しとか! バカなことして!」
「うるせー!」
今度は明日美の頭突きが智朗の鼻に命中する。
たまらず智朗は手を放し、鼻を抑えてしゃがみこむ。
「ごめっ、ちょっ、ちょっとまって!」
それでも明日美の手は止まらない。平手は鉄槌になり智朗の頭や肩や背中をお構いなしに叩き続ける。
観念した智朗がじっとしているうちに明日美は力尽きたように座りこんだ。肩で息をしている。
「なんだってんだよ」
智朗は不貞腐れる。鼻の下を拭った手の平が生暖かくぬめる。
「わかってる!? 自分がしたこと。人を殺すとか!」
「わかってるに決まってんだろ! テキトーに人殺しなんかやるもんかよ!」
二人は鼻息を鳴らしてにらみ合う。
智朗の鼻に溜まった血がプッと吹き出す。
明日美はティッシュを取り出す。
「もう!」また垂れてきた智朗の鼻血を拭いてくる。
「ひとが真面目に喋ってんのに鼻血とか! 力抜けるでしょ!」
「はぁ!? おまえのせいだろ!」
「はぁー!? わたしが来る前から出てました!」
「止まってたよ! これはおまえの頭突きのせいだ!」
「あーうるさいうるさい!」
明日美は怒りながらティシュを縒って鼻に突っ込んでくる。
「そっちじゃねえよ!」
智朗も怒りながら反対の穴に入れ直す。
鼻からティッシュを飛び出させて間抜け面になっているだろうが、今更気取ってもしょうがない。
明日美は少し落ち着いたらしい。
「血だらけ」
舌で濡らして顔を拭いてくるが――
「いたいから」
智朗は明日美の手を遠ざける。
「ぼこぼこになって……もう気がすんだでしょ」
「……そっちこそ、こんだけ叩けば気ぃすんだろ。もういけよ」
投げやりに応えると明日美は思い出したように表情を厳しくしてシャツの胸倉を掴んでくる。
「まだ大事なこと言ってない」
「はぁ?」
「女の人をナイフで脅して! それも妊婦さん! 妊婦さんはね! お母さんはね、不安とか心配とか責任とか、そういうのと戦って、負けないで、あんなにお腹を大きくしたんだから。それをあんな目に遭わせていい人なんていないの!」
「だから傷つけないように……」
「でもこうなったでしょ! もしあの人になにかあったらどうするの? 智朗くん、今井さんに恨まれるよ! もし赤ちゃんになにかあったらどうするの? あのお母さんにも恨まれるよ? それって智朗くんが今井さんを恨むのとどう違うの?」
「アイツは、恨んでもいないのに父さんを殺した! そっちの方がよっぽどだろ!?」
「智朗くんはあの女の人を恨んでるの? お腹の中の赤ちゃんを恨んでるの?」
「ああ! アイツの子供だからな!」
「ほんとうに?」明日美は智朗の胸倉を揺らす。「だったらあんなに謝ったりしないでしょ?」
智朗は反論できなかった。土下座したところまで見られているのだから。
「法律が許してるからとか、罰を受ければいいだろうとか、そういうことじゃないでしょ?」
そんなことはわかっている――反論を飲みこんで明日美の手を引き剝がす。
「それでもね、あの人、智朗くんに『ごめんなさい』って。『できるなら今井さんを赦してください』って」
(くそう……)
智朗は挫けてしまいそうだった。
仇の妻にも恨まれた方が、きっと、もっと、ずっと気楽だ。
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「もう帰ろう」
明日美は立ち上がり、穏やかに声をかける。
智朗はうな垂れたまま動かない。
「ここにいる。アイツが戻ってくる」
「そんなわけ……」
「そう言った。オレを殺すつもりなのか、オレに殺されるつもりなのか、わかんないけど」
「殺すとか殺されるとか、そういうのもういいから! 帰るよ」
明日美は地べたのギターケースを閉じようとして、ギターとケースの傷に気づく。
「これ……」
「アイツがやったんだ。父さんを殺すときに。父さんが、去年の誕生日にプレゼントしてくれるはずだった」
怒気を帯びかける智朗の声をなだめるように、穏やかに明日美が応える。
「うん。しってる。智朗くん、楽しみにしてたもんね」
智朗とメールのやり取りが続いていた頃、母親に内緒でこっそりギターを選んできたことを嬉しそうに報告してくれた。
「母さんが死ぬまで、弾けなかった。父さんが死んだのに、死んだ父さんが持ってきたギターで遊んでるような息子だなんて思われたくなかった。親不孝な息子だなんて悲しませたくなかった」
「うん……」
明日美はケースを抱いて、また智朗の隣に座った。
「母さんが死んでから、マジに家ん中静かで、怖くて、気持ち悪くて我慢できなくて、やっとギターを弾いた。父さん、ギターと一緒にジョン・レノンの楽譜も買っててくれて」
「うん……」
「オレはジョン・レノンってそんなに好きでもないってしってるくせにさ。あー、でもそういえば父さんにも時々弾かせてくれって言ってたなーって思いだして」
「うん」
「楽譜に折り目がつけてあってさ……」
「うん」
「“ビューティフル・ボーイ”」
「どんな曲だっけ?」
智朗はサビのメロディを少しだけ小さく口ずさんだ。
「ちゃんと歌って」
「やだよ」
「歌え」
明日美が智朗をみつめると、根負けしたように彼は歌い始めた。
「Close your eyes……」
怯える子供を穏やかになだめる歌詞。
瞳を閉じて。
もう怪物は去ったから、怖がることなんかないよ。
明日美は指先でギターケースを叩いてリズムを添える。
幼い息子とその未来への愛情が綴られた歌詞。智朗が時折声を詰まらせるのは、英語だからではないだろう。
支えるように明日美も歌い始めた。
まるでハーモニーになっていない二人の歌声は、それでも外灯よりもずっと高くへと昇っていくようだった。
歌は、ジョンとヨーコの最愛の息子、ショーンの名を囁いて終わる。
うつむく智朗に、明日美は拍手を送る。
「知ってんじゃないか、おまえ……」
恥ずかし気に智朗は明日美の肩を弱々しく小突く。
「こんなにいい歌だってしらなかった」
明日美はしれっとして答えたが、本当のことだった。
きっと智朗の父親はこれを智朗に弾いて聴かせたかったのだろう。言わずもがななので、口には出さないが。
夜蝉も鳴かない静寂のなか、智朗が涙声でつぶやいた。
「そんなこと、わからねーよ」
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「こんなにいい歌だって知らなかった」
明日美の言う通りだ。
折り目がついていた“ビューティフル・ボーイ”。
歌詞を読んで、息子の成長を楽しみにする親の心情を歌った曲だと思っていた。
父と母から、それを奪ったあの今井靖男が赦せなかった。
だから、今日も自分を鼓舞するつもりでこの歌をまず歌った。
しかし、明日美と一緒に歌いながら気づいた。
この歌の主人公は、子供自身なのだと。自分なのだと。
愛しくて、愛しくて、愛しくて、愛しくてたまらない子よ。
オレは、父と母にこう歌ってもらえるような息子か?
心からそう誇ってもらえるような息子か?
「そんなこと、わからねーよ」
涙がこぼれた。血と一緒に鼻水も出てきた。
明日美に見られまいとそっぽを向いていると、彼女がギターを取り出す気配がした。
そして聴こえてきたのは、“ロンドン・コーリング”。
智朗は笑いをこらえた。
案の定、待っても待っても繰り返されるイントロ。催促するような明日美と目が合ってしまい、とうとう智朗は笑いだした。
「オレは歌わないぞ! もう歌わないからな」
出だしだけ英語歌詞をそのまま引用しました(歌詞とはいえごく一般的な言葉なので)
今のところギリOKの範囲だろうと思ってますが、気が変わったり注意指摘を受ければ修正します。
和訳部は一応公式な和訳と同じにならないように気をつけています。




