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吠えない蝉  作者: 野間義之
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63

 靖男(やすお)は足腰の筋力を爆発させ、膝立ちから一気に跳ね出す。

 足元の携帯電話に気を取られていた松川トモロウが視線を戻しかけたが、躊躇せずナイフを持った彼の右手首を掴む。左手に痛みを覚える。刃がかすったのだろうが構っていられない。

 勢いのまま右肩を松川トモロウの胸にぶち当てる。少年は後ろに倒れかけたが掴んだ手首ごと引き戻すと頭を、横腹を拳で殴りつける。

 松川トモロウは呻いて膝を折った。

 あっけないが、まだ制圧は完了してない。少年の右手はまだナイフを離していない。

 靖男は松川トモロウの右腕を捩じって抱えこむと、自らの指を割り込ませてナイフから引きはがす。

 ナイフを放って松川トモロウに馬乗りし、顔面を掴んで地面に押しつける。

「爆弾を! 止めろ!」

 応えない松川トモロウの顔面を平手で張る。張る。張る。張る。

 それでも少年は靖男を両腕を蠢かして靖男を殴ろうとしてくる。炯々と憎しみに満ちた眼を精一杯に放ち、力の乗っていない、届きもしない拳を繰り出し続ける。

 靖男は舌打ちとともに松川トモロウから離れるとナイフを拾った。

 これで脅せば――

「ああ……」

 あのときのナイフだ。息が詰まった。このナイフを、この少年に向けることなど、していいわけがない。

 しつこく鳴り続けている杏子の携帯を拾う。先刻からの着信の主は『琴美さん』となっている。無事に目が醒めたのか。めでたいことだが、今はそれを喜んでいる場合ではない。

 一縷の望みを懸けて電話に出る。もし琴美が隣の部屋に戻っているならば、なんとかなるかもしれない。

「早川さんですか!?」

『今井さん!?』切羽詰まった声。間違いなく琴美だった。

「今、どこですか?」

『今井さんたちの部屋』

「なんで!? 杏子は!? 杏子は!?」

『大変よ! 具合悪くなって今救急車呼んでる。はやく来て!』

「爆弾は!」

『はぁ!? なにそれ!?』

「いやその、杏子の腹の上に爆弾置いたって言ってる人間がいて……」

『うそー? そんなのないわよ! ねー、アンタの彼氏、なんか、爆弾とか作ったの?』

 誰と喋っているのか訝っていると、知らない少女の声が聞こえた。

『そんなのしりませんよ』

『大丈夫、たぶん、あれ』

 苦しげな杏子の声に、まずは生きていると安堵する。

「杏子は?」

『だから具合悪いんだって』

「爆弾は!?」

『杏子さんが大丈夫って言ってるから大丈夫なんじゃない。なんかガラクタっていうかオモチャみたいなのはあるけど』

「杏子のお腹になにか貼られたりとか……」

『してないから』

「すぐ行きます!」

『今どこ?』

「駅のそばの公園です」

『トモロウくんはいますか? 大丈夫ですか?』

 先刻の少女の声が割り込んできた。

「ここにいます。大丈夫です」

 それだけ答えると、電話を切った。

 松川トモロウが辛そうに体を起こしていた。

「爆弾とか! 嘘か! なんだよチクショー! バカにしやがって!」

「その気になりゃ作れるよ! オレはオマエ以外殺す気がないだけだ!」

 立ち上がった松川トモロウが殴りかかってくる。

「やめろ」

 靖男はあっさりかわすと、足をかけて松川トモロウを転ばせる。

 靖男は自分の携帯電話を松川トモロウに向けて放った。携帯電話は少年の体で弾んで地面に落ちる。

 松川トモロウは怪訝顔で携帯電話を見て、靖男を見た。

「ここで待っててくれ。戻れないなら電話する。今は杏子のところにいかせてくれ。すまない」

 返事も待たずに靖男は踵を返すと、アパートへ全力疾走する。

 なにごとかと驚き怯む通行人たちの視線を弾いて走り続ける。

 途中、泣きそうな顔で走ってくる少女とすれ違ったが、ぶつからないように注意を払っただけですぐに頭から消えた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 時間はやや戻り――

 病院からタクシーで《カーサ・デ・ソル》に帰ってきた琴美は、自室よりも先に隣の今井家の玄関へ向かった。

 聞けば靖男も救急車に乗って付き添ってくれたという。

 杏子も管理人立ち合いで琴美の部屋に入り、服や下着を見繕って入院の荷物をまとめてくれたらしい。

 とにかく今井夫婦に礼を言わなくてはならない。訊かれて語れる事情ではないが、少なくとも生きている自分の顔を見せて安心させたい。

 緊張混じりに今井家の呼び鈴を鳴らすが、なんの返事もない。

 留守だろうか。いつもなら夕餉の頃だが。

 胸騒ぎがした。

 出産予定日はさ来月のはずだが、何事か起きて病院へ行ったのか。

 ふたたび呼び鈴を押しかけたとき、室内から音がした。

 ドスドスと、重い物が床に落ちるような音だ。これが数年前で下階に人が住んでいれば苦情を受けかねないほどだ。

(もしかして、杏子さんが倒れてるんじゃ)

 琴美は玄関の扉を叩いて呼んでみる。「杏子さーん?」

 すると呼応するように、件の音が早く、大きくなった。耳を澄ますと、かすかに「うーうー」と唸り声も聞こえる。ただ事ではない。ノブに手をかけてみると、鍵はかかっていなかった。

 意を決して上がり込み、居間へ駆けこんだ琴美は目を丸くする。

 背中合わせに縛られ、口にテープを貼られた二人の人間が横倒しになっていた。一人は杏子で、もう一人は知らない少女だ。

 杏子は汗まみれの顔で目を閉じ、ぐったりとしている。

 見知らぬ少女は琴美に向かって目を剥き、懸命になにか訴えている。

 わけがわからぬまま杏子の口のテープを剥がす。その痛みで気がついたのか、杏子がとろんとした目で琴美を見た。唇を動かすが、言葉は聞き取れない。

 続けて見知らぬ少女のテープを剥がす。

「はやく救急車を呼んでください!」

「なに!? なんなの!? 強盗!」

 少女に促されるまま琴美はポケットを探り、しかしスマホを持っていないことを思いだす。自分の部屋だ。

 たしか今井家に固定電話はないはずだ。

「あんた、ケータイ貸して!」

「持ってないです!」

「なんでよ! 杏子さん! ごめんケータイ貸して! どこ?」

 琴美が頼むと、杏子は弱々しく首を振る。

「たぶん、取られたんだと思います」

 少女が応えた。

「誰によ! もう!」

 仕方なく琴美は自分の部屋へ駆けこんだ。

 杏子のおかげだろう、部屋はこ奇麗に片付いている。テーブル上のバッグからスマホを取り出す。

 バッテリー残量がひと桁。これでは通話中に切れてしまうかもしれない。

「もう!」

 琴美は充電器を見つけるとスマホにつないでコンセントに差す。

 留守の間に、大量の着信があったようだが今は無視する。

 詳しいことはわからないが、妊婦が倒れているのでとにかく大至急来てほしい――そう消防署へ通報すると、琴美は充電器ごとスマホを持って杏子のそばへ取って返す。

「琴美さん、もう大丈夫?」

 杏子からか細い声で心配されて、琴美は涙が出た。

「アタシのことはいいの! もうすぐ救急車来るからね。頑張って!」琴美は杏子の背中を優しくさすりながら正体不明の少女に声をかける。「ちょっとアンタ、杏子さん、いつから具合悪いの!」

「三十分ぐらいまえから……ぐったりなって、横に倒れて」

「そんなに……」

 不安が膨らむ。

 とにかく結束バンドをなんとかしなくては。棚の引き出しからハサミを取り出したものの、刃はバンドの表面を滑るばかりでこれでは切れそうにない。

「なんなのよこれ!」

「あの」少女が声をかけてくる。

「なに!?」

「あっちの部屋かどこかに、切るのがありませんか?」

 少女が顎で示した台所へ行ってみると、たしかにニッパーが飯台に置かれていた。居間に戻り、杏子と少女の両手同士をつなげている結束バンドをニッパーではさむ。

 バチン、と驚くほど勢いよく、弾けるようにバンドが切れた。

「やった!」

 琴美は続けて杏子の手首を(から)げている結束バンドにニッパーを当てる。

「なんで知ってたの?」

 ニッパーのことを尋ねると、少女は手足を縛られたまま体を起こそうともがきながら答える。

「わたしを縛ったあと、トモロウくん、それ持ってあっちに行って、戻ってきたときには持ってなかったから。きっとトモロウくん、すぐに切れるようにって置いていったんだと思う」

 庇うような口ぶりだ。

「誰よ、トモロウって!?」

「わたしの彼氏です!」

「なんでカレシがカノジョ縛るの!」

 (しも)がかった冗談を飲みこんで手足の結束バンドを切り終えた琴美は、杏子の手を前に回して声をかける。

「楽な恰好になって。杏子さん」

「わたしのも切ってください!」

 焦れたように催促する少女。

 正体不明なこの子を自由にしていいものか迷っていると、杏子が声をかけてきた。

「琴美さん、私の携帯に電話して」

「どうして?」

「あの人、止めなきゃ」

「あの人って?」

「トモロウくんです!」

 少女が割り込んでくる。

「だからトモロウって誰っていうか、何者よ?」

「ヤスさんを、殺そうとしてるの……」

 いよいよ物騒な話になってきた。

「はぁ?」

 混乱しつつも琴美は杏子の携帯電話に通話をかけた。

 呼び出し音は鳴るが、出ない。

「そのトモロウってヤツが出たらどうすればいいの」

 わたしが、出ます。話します――少女と杏子が同時に応えて、ますますどうすればいいのかわからなくなる。

 なかなかでないが、とにかく待ち続けた。二分ほど待った末に、ようやく繋がった。

『早川さんですか!?』

「今井さん!?」

 てっきりトモロウとかいう男がでると身構えていた琴美は拍子抜けした。ともあれ靖男は無事のようだ。

『今、どこですか?』

「今井さんたちの部屋」

『なんで!? 杏子は!? 杏子は!?』

「大変よ! 具合悪くなって今救急車呼んでる。はやく来て!」

『爆弾は!』

「はぁ!? なにそれ!?」

「いやその、杏子の腹の上に爆弾置いたって言ってる人間がいて……」

 杏子のマタニティドレスの上にそれらしいものはない。裾をめくって覗くが、下着以外にはなにもない。

「うそー? そんなのないわよ! ねー、アンタの彼氏、なんか、爆弾とか作ったの?」

 少女に訊くと「そんなのしりませんよ」と怒ったように応える。縛られたままなのが気に食わないようだ。

「大丈夫、たぶん、あれ」

 振りむくと、杏子が部屋の隅に落ちているオモチャのような物を指差している。

『杏子は?』

「だから具合悪いんだって」

 靖男に応えながらそれを拾い上げる。試験管のような物をオモチャの通信機らしきものにくっつけた物だった。いわれてみれば爆弾のように見えなくもないが、動いている気配はない。

『爆弾は!?』

 大真面目な靖男の様子が滑稽に思えてくる。

「杏子さんが大丈夫って言ってるから大丈夫なんじゃない。なんかガラクタっていうかオモチャみたいなのはあるけど」

『杏子のお腹になにか貼られたりとか』

「してないから」

『すぐ行きます!』

「今どこ?」

『駅のそばの公園です』

「トモロウくんはいますか? 大丈夫ですか?」

 縛られたまま転がりにじりよってきた少女が足元で大声を出す。

『ここにいます。大丈夫です』

 靖男はそれだけ応えると電話を切った。

「公園に居るって。大丈夫だって」

「本当ですか!?」

「なにがどう大丈夫なのか知らないけど……」

「早くこれ、切ってください」縛られた足首を突き出してくる。「はやく! ねぇ!」

「うっさいガキね!」

「琴美さん、切ったげて」杏子が頼んできた。

「だって、このコのカレシがこんなことしたんでしょ?」

「この人は止めに来てくれたんだと思う」杏子は少女を庇う。「その彼氏さんも、悪くないの。悪いのは、ヤスさん……」

「どういうこと?」

 訊くが、杏子は答えない。

 仕方なく少女の手足の結束バンドを切る。

 自由になるや、少女は杏子の前に座りこんだ。

「ごめんなさい! トモロウくんを(ゆる)してください! 絶対、もうこんなことはさせません! だから……」

「ヤスさん、大丈夫みたいだから、気にしないで。わたしも平気。あなたはトモロウさんのところに行って」

「でも、あなたが……」

「琴美さんがいてくれるし、ヤスさんも来るから。ねっ?」

 杏子に同意を求められて、琴美は頷くしかなかった。

「トモロウさんに、ごめんなさいって伝えて。できれば、ヤスさんを赦してほしいって」

 少女は顔を覆って泣きだした。

「ねっ、行って? ヤスさんが来ると面倒くさいかもだから」

 少女は頷き、立ちあがる。琴美に公園の場所を教わると、足音もやかましく出ていった。

 琴美はなにやら立ち入りづらい事情を感じて、それには触れないことに決めた。自分だってそうだ。

 水のペットボトルを渡すと杏子は少しだけ飲んだ。

「産まれそうとか?」

「わからないけど、違うかも……」

 杏子の答え方は不吉なものだった。

 外から救急車の音が聞こえてきた。その到着よりも早く靖男がやってきた。外階段を踏み鳴らし、土足で居間へ駆けこんできた靖男の顔には幾つも太いミミズ腫れが走っている。左手は切り傷から出血している。

「今井さん!」

「平気ですから」

 靖男は横になっている杏子の手を取る。

「大丈夫か?」

 しかし杏子はその手を振りほどく。拒絶めいた仕種だった。

 琴美も驚いたが、靖男はそれ以上に狼狽し、傷ついたようだった。

 膝をつき、悄然とうなだれ、「痛くないか? 我慢できそうか?」と心配する。

 それに杏子は目も合わせず「大丈夫」とだけ答える。

 居づらさに琴美は外に出た。車道脇に立つとやってきた救急車にむかって手を挙げた。

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