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吠えない蝉  作者: 野間義之
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 智朗(ともろう)の初のライブは終了した。

 “ロンドン・コーリング”で仇を皮肉る歌を歌ってやった。

 自分ではなかなかいい出来だったと思うが、仇はお気に召さなかったようだ。妻の携帯電話ばかり気にしている。顔を見せてもピンときてない。父親の名前を聞いてやっとわかったらしい。

「ああ……」

 仇はたじろぐように一歩下がった。

 ギターを肩から抜いてケースに収めると、後ろ腰に隠していたナイフを握る。タオルを外し、刃を晒す。

「殺してやる」

「まて! わかった! あの人の息子さんだな!?」

 丁寧な物言いが良識あるいち市民を気取っているようで苛立ちが増す。人殺しのくせに。

「そう言ってんだろ」

「頼む! まってくれ!」

 仇は両手の平を前に突きだして懇願してくる。

 隙あらば殴ってくるような粗暴な男だと身構えていたので拍子抜けだ。

「なんだよ?」

「あれは違うんだ。君のお父さんが憎くて殺したんじゃない」

 智朗は愕然とした。

「ふざけんなァ!」

 智朗はナイフを横に薙ぐ。あわてて引かれた仇の手をかすめて刃が走る。

「憎くもなんともなくて殺したのか! そんなことして、相手がどんなに苦しんで死ぬとか、家族がどんな思いをするかとか、そんなこと考えもしないで殺したのか!」

「命令だったんだ!」

「命令だったら殺すのかよ。命令したのは誰だよ?」

「国だ」

「アンタ、国に命令されたら死ねるのか」

 仇は問いには答えず、また言い訳をしてきた。

「君のお父さんを恨んでたヤツは本当にいた」

「だったらなんでそいつが来なかった? 病気だから代わりに殺してくれ? オッケー、国が代わりに殺してやる? ふざけんな。あのジジイが死ぬ間際まで人を憎むような世の中にしたのはどこのどいつだ? 政治家とかそれにつるんでる金持ちだろーが! そいつらが作った国でそれでも必死に生きてる人間を殺すのか! 憎くもない人間を殺すなんてこと、よくできるな! おまえのせいで母さんも死んだ! おまえなんか人間じゃない! 悪魔だ!」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 人間じゃない。悪魔だ――松川トモロウと名乗った少年の言葉に、靖男(やすお)は全身の毛をむしられたような痛みを受けた。

 《標的》がどんなに苦しんで死ぬとか、遺族がどんな思いをするかとか、そんなこと考えもしないで殺したのか――そう。あまり考えもせずに殺した。

 自分が父親を愛していなかったから。どうせ殺したいほど恨まれる《標的》も自分の父と同じ程度の人間なんだろうと決めつけた。死んでも誰も悲しまない存在。命令だからと割り切れてしまった。

 松川トモロウの母親も死んだという。やはり靖男のせいで。

 俺も父親になるんだ。赦してくれ。いまは罪悪感も嫌というほど味わっている。自衛隊だって辞めて稼ぎも減って苦労もしている。

 赦しを乞う言葉が喉まで出かかったが、しかし口にはできなかった。

 松川トモロウがぶつけてくる憎悪は、靖男の感傷や言い訳など絶対に認めないとはっきりわかるほどに、ぶ厚くて、固く、重い。

 そしていま、この局面で自分が取るべき行動は、とにかく我が身を守ることだ。本能がそう答えを出した。

 見たところ凶器はナイフ一丁だ。その気になればどうとでもできる。

 しかしなんとかこの場を収めても、またこの少年はやってくるだろう。

 そして危害は自分だけではなく杏子とそのお腹にいる我が子にも及ぶ。事実、杏子を人質に取られている。

(だったらいっそのこと、殺してしまおう。俺にはまだ公殺権がある。この少年も殺しにきたということは十八歳以上だろう)

 悪魔と呼ばれた靖男は、芽生えた殺意を、それでも抑えこむ。この少年の父の墓を参ったばかりではないか。もう誰も殺すものか。

 とにかくこの場を乗り切り、家族を守る。

 まずは家族の状況を確かめなくては。

「杏子は無事なのか!? 子供は!?」

「怪我なんてさせてないよ。でも、腹の上に爆弾置いてきた」

「はっ!?」

「家がフッ飛ぶようなすごいモンじゃないよ。でも人間の腹ぐらいはグチャグチャにできる」

 先ほどの待ち受け画面を思い出す。たしかに何か正体不明な物体が杏子の腹部に置かれていた。あれか。

「止めてくれ! おなかに子供がいるんだぞ!」

「アンタが死んだらな。ちなみにあと五分ぐらいで爆発するからさっさと殺されたほうがいいよ」

「まておい! それじゃ今から走っても止められないだろう!」

「止めるのはオレのスマホでできる。でもスマホは隠してある。もしオレを殺したら大変だよ。残った時間でスマホ探して、パスワード突破して操作して止めるなんて絶対無理だから」

 この松川トモロウという少年は今日のために周到に準備をしてきている。説得や交渉の余地などない。

 こちらも実力行使しかない。目の前の凶器はナイフ一丁だけ。目や心臓を刺されなければ堪える自信がある。なんとか隙をつけば――。

「わかった」

 観念したふりをする。うなだれて両腕を下げる。

「手を後ろに回せ」

 松川トモロウが命じてくる。眼光と切っ先を逸らすことなく油断なく屈み、ギターケースから太い結束バンドの束を取り出した。

 あれで手を縛られたらさすがにまずい。

「そんな時間ないだろ! 早くしてくれ」

 さあ刺せとばかりに胸を突きだすと、松川トモロウは一瞬ひるむように止まった。

「抵抗はしない。だから早く殺して爆弾を」

 言い終わる前に顔面に痛みが走る。結束バンドの束で顔面を鞭打たれた。

 咄嗟に閉じた右の瞼から顎にかけて燃えるような、割けるような激痛が走る。

 顔を抑える手をさらに鞭打たれる。

(よし)

 靖男はひとまず安堵する。拘束されるよりましだ。

 指の隙間から松川トモロウを観察する。怒り任せの打擲(ちょうちゃく)に見えて、手の引きが早く、ひと打ちごとに下がって距離を取っている。少しは格闘技の心得があるのかもしれない。

 しかし自衛隊で共に過ごした猛者たちに比べればどうということはない。次に近づいてきたらナイフを持つ右手を掴んでやる――。

 靖男はタイミングを計り始めたが、次の一打はこなかった。

「しゃがめよ」松川トモロウは柄の悪い口ぶりで命じてきた。「土下座しろ」

 従い手をつきながら上目で観察する。松川トモロウはもう息を乱し始めている。持久力もたいしたことはないようだ。

「本当にすまな……」

 謝罪が終わる前に顔を蹴られた。

(土下座させたのは蹴るためか)

 続けざまに顔や脇腹を蹴ってくるつま先が固い。作業用の安全靴のようだ。蹴られる方にしてみればとんだ凶器だ。

 足を掴むのは簡単だが、ナイフで反撃されればアウトだ。

 こめかみを蹴られてさすがに思案も飛びかける。

 元自衛隊員として体力には自信があったし、打たれ強さもそれなりにあるつもりだった。訓練で上官に肉体的な指導を受けても平気だった。しかし憎しみと害意を孕んだ暴力は、まったく別物だった。

 なぜ俺が、と理不尽に憤ることも出来ない。自業自得――因果応報――蹴られた箇所から諦めが沁み込んでくる。

(殺されてしまうか)

 そう思い始めたとき、蹴りが止んだ。

 顔を上げると、肩で息をしながら松川トモロウが見下ろしていた。

(そうとう息が上がっている。やっぱりコイツは体力がないな)血の混じった唾を吐く。(そろそろ時間だろ。爆弾なんてハッタリじゃないのか? でも、もし本当なら……)

 杏子とおなかの子が死ぬ。

 このまま嬲られている時間はない。自分が死ぬか、松川トモロウを制圧するか。

「わかったから……お願いだ。杏子や子供には……」

 膝立ちになり懇願したそのとき、不意に電子音が鳴り響いた。

 落としたままになっていた杏子の携帯電話が、松川トモロウの足元で光と着信音を発している。

 松川トモロウがそれに気を取られた。驚き、反応に窮している。

 突然の好機に、靖男は咄嗟に動いた。

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