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吠えない蝉  作者: 野間義之
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 会社を出ると靖男(やすお)は思わず足を止めて息を吐いた。午前中に有給を使い出社が遅くなった分、やはりサービス残業になってしまった。

 とっくに暗くなっているが、居残った暑気にじっとりと汗がにじんでくる。

 駅までバスに乗りたくなったが、そんな甘えを抑えこんで歩きだす。ネクタイを外して鞄にしまうと首元を楽にする。

 またため息をつく。

 墓に参れば気持ちに一区切りがつくのではないかと期待していた。しかし実際には罪の意識が深まっただけだった。

 罪悪感という言葉が脳裏をよぎり、かぶりを振る。

「ちがう。あれは犯罪でも殺人でもない。国が許してるんだから。奥さんが死んだのだって俺とは関係ないのかもしれないだろ」

 今日幾度となく胸中で繰り返した言葉を、ようやく口にしてみるが、耳から戻って来ると言い訳に揺れていた。

 気が滅入ってきた。帰りたくないな、飲みにいってしまおうか――迷い出して携帯を取り出すと、杏子(きょうこ)からメールが入っていた。

 ――今日焼き肉。何時に帰る?

 靖男は肩を落として、ほっと苦笑する。逃げそこなった。

「めずらしいな」

 意外な気がした。普段焼き肉の類は部屋が臭くなるからと、あまりいい顔をしないのに。それをわざわざ平日に。文面にも違和感がある。杏子は適度に絵文字や記号を使うのに、このメールは素っ気ない。

 しかしすぐに思い直した。気を遣ってくれているのだろう。たぶん、ここ数日冴えない顔をしてしまっていたに違いない。絵文字や文面もそんな自分を慮ってのことだろう。

 靖男は二十時ぐらいにと返信した。

(早川さんが帰ってきたのかもしれないな。それで一緒に、とか)

 駅に向かいながら昨日の騒ぎを思い出す。

 隣人の琴美(ことみ)が服毒自殺を図った。幸いすぐに病院に運ばれて一命は取り留めたものの、琴美は目を覚まさなかった。お昼に杏子が病院へ問い合わせの電話をかけたが、まだ目は覚めていないらしい。

 救急車が到着した際、成り行きで靖男と向かいのアパートの渡部という女性が病院まで付き添った。救急車を呼んだのはその女性だが、琴美の自殺に気付いたのは見知らぬ少年らしい。その少年は救急車が到着する前に姿を消していた。

 早川さんはあんな調子だから、ずっと覗かれたりしてたのかもしれないな。ソイツも覗いていたとバレれたらバツが悪いのでお手柄も放り出して逃げたのだろう――靖男はそんな風に考えていた。

(それにしても、まさか早川さんがなぁ……)

 琴美が自殺だなどと夢にも思わなかった。杏子ともどもショックを受けた。奔放で我が道を行っているように見えても、やはり懊悩や屈託を抱えているのだろうか――そう親近感さえ覚えた。


 駅のホームで伊達眼鏡を着けて電車を待っていると、また杏子からメールがきた。

 ――駅のそばの公園で待ってます

 足りない食材を買いに出て、そのついでに一緒に帰ろうということだろうか。

「夜に出かけるなって言ってんのに」

 ぼやく靖男の脳裏にまた違和感がチラついた。それなら靖男に頼めば途中で買って帰る。これまでもそんなことは何度もあった。

 電話をかけてみようとすると、電車の到着を告げるアナウンスが流れてきた。結局、了解とメールを返して携帯電話をしまった。

 午後七時四十分過ぎ。帰宅ラッシュをやや過ぎた電車の中で、靖男は思いきって伊達眼鏡を外した。

 長後駅のやや手前で、いつもよりも深く頭を垂れた。

 松川修也だけでなく、その妻に、そして、その息子にも赦しを乞うた。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 了解、と返信が届いた携帯電話は智朗(ともろう)の手の中にあった。

 仇の妻を縛り上げたときにまっ先に奪い、仇宛てにそれとなく帰宅のタイミングを探るメールを送信しておいたのだ。

 もうすぐ仇がやってくる。

 高座渋谷駅にほど近い公園のベンチから腰を上げると、園内の反対――通りから離れた場所へ移動した。

 もうすっかり暗い。照明灯の下に立つ。

 ギターを肩に掛けてチューニングする。

 公園には智朗しかいない。それでも少し緊張する。なにしろ人生初のライブだ。

 多くのミュージシャンが、下積み時代の聴衆の少なさを語り草にする。

「オレの初ライブは、オーディエンス、一人」智朗は芝居がかったように、気がふれかけているように笑う。「そいつを殺しました――なかなかいないよ、こんなヤツ」

 また仇からメールが届く。律儀にも駅に着いたと報せてきた。

 智朗はギターを弾き始めた。“ビューティフル・ボーイ”――父も母も大好きだったジョン・レノンの曲だ。

 たどたどしい智朗の歌声と、しっかりとリズムを刻むギターが辺りに響き始める。

 駅そばの踏切が鳴る。

 いよいよ時がきた。

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