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琴美が目を覚ますと、また見覚えのない場所だった。今度はなにもかも白くて素っ気ないベッドの上。壁とカーテンで作られた狭い空間。どこかの病院の一室らしい。
「早川さん」
声に顔を向けると傍らに渡部幸世がいた。安堵の表情を浮かべている。
状況がわからない。薄い布団を頭からかぶり、思いだし、考える。
「早川さん、大丈夫ですか? 医師を呼びますね」毛布越しの幸世の声。
「そっか……」
経緯はわからないが、病院に運ばれて、自殺は失敗に終わったのか。
やがて医師と看護士がやってきて診察を始める。その間、幸世は医師たちの背後に黙って立っていた。
服んだ薬物の名と量を答えると、医師は「運がよかったですね。放っておけば間違いなく死んでいましたよ」と目も合わせず淡々と告げた。看護士はときおり琴美に蔑むような視線を向けた。
「その人が助けたの?」
「そうですよ。昨日からしょっちょう様子を見に来てくださってますよ。親切なご近所さんでよかったですね」
医師はカルテを記入する手も止めずに興味なさ気に応える。
あれから丸一日は経っていることと、それに付き添ったらしい幸世に驚いた。ありがとう、を意地で飲みこみ、琴美は彼女から顔を逸らした、
「帰っちゃだめ?」
「構いませんが、もう夜になりますしあと一晩寝ていかれては?」
「平気です」
「そうですか」
どうでもよさそうに医師は対応した。医者にしてみれば、自殺者ほど業腹な存在はないのだろう。態度に配慮の類は一切なかった。
医師たちが去った。ベッド脇の椅子に掛けた幸世と二人きりの状況が耐えきれず琴美は身を起こした。背中と腰がきしむ。内臓が重くなった気がする。足に力が入らない。
幸世がベッド下からカゴを引き出してくれた。着替えが入っている。
「お隣の方が持ってきてくれました」
身重の杏子に面倒をかけてしまったことを今更に申し訳なく思った。
強張る体に難儀する琴美に幸世が声をかける。
「無理しないほうがいいんじゃないですか?」
「……どうして助けたの」
「助けたのは私じゃありません」
「誰?」
「わかりません。誰か知らない男の子がやってきて、そこの部屋で人が死にそうになってるから救急車を呼んでくれって」
「誰?」
「さあ。すぐにいなくなってしまったから。あなたのお知り合いなんじゃないんですか?」
そんな心当たりはなかった。高校生ぐらいの髪の長い男子と言われても、そんな知り合いはいない。
「放っておけばよかったのに」
「その子もうちの子たちも見てましたから。子供の前でそんなことできません」
「じゃなかったら、見殺しにした?」
失笑を漏らす幸世に、琴美は身勝手にも寒気を覚えた。幸世に向き直り、頭を下げた。
「ごめんなさい」
「やめてください」
声の下から壁を立てられる。
「本当に知らなかったの。あの人に奥さんと子供がいるなんて」
「いなければ殺していいってことでもないですけどね。法律が許してるから殺していいってものじゃないですけどね」幸世は苦笑さえ疲れたように表情を消した。「いいからもう勘弁してください。死ぬなんて」
「赦してくれるの?」
懇願めいた琴美の問いに、幸世はまるで哀れで弱い仔を見るように目を細めた。
「私にあなたを赦すも赦さないもありません。あなたが殺したのは水谷ですから」
「……旦那さんでしょう?」
「そうですよ。そうでした。薄情なようですけど、死んだ頃にはそこまで水谷ことを大事になんて思ってませんでしたから。そりゃ、殺されたときはさすがにこたえましたけど。しばらく水谷姓だったのは、子供の為です。親が殺されたなんて知れたら、学校でどんな目に遭うかわかりませんでしたから。結局、バレてしまったので、旧姓に戻ってこっちでやり直すことになりましたけど。私があなたになにかお願いするとしたら、死んでください、とかそんなことじゃありません。あの部屋から出ていってください。今の私と子供たちの生活を壊さないでください。ただ、それだけです」
「恨んでないの?」
「恨んでますよ。でもちょっと立場やタイミングが過ぎれば、私が水谷を殺していたかもしれないし。ずっと女遊びをしていたし。殺されたって聞いて『あぁ、あの人にはお似合いな死に方だな』ってくらい。いい妻なんかじゃないんですよ、私。自分は好き勝手やってるクセに私がお店始めるときに水谷はいい顔しなくって。そういうのもあって全然上手くいってなかったんですよ。さっさと別れたいって思ってたくらいで。だから嫉妬に駆られてあなたに復讐とか考えもしませんでした。馬鹿らしくって。もし私があなたに殺されたんなら納得いかないかもしれないけど。ふふ、なんだか理屈がおかしいですね。きっと一番あなたを殺したいのは水谷なんじゃないですか」
自嘲混じりに一本調子で語る幸世に琴美は口をはさむことも出来なかった。
ようやく厄介ごとが片付いたようなため息とともに幸世は立ち上がる。
「お願いします。あそこから出ていってください。お店にも来ないでください。もう私たちに構わないでください」
去り仕度をすませた幸世は深くお辞儀をし、顔を上げた。親しみも同情も憐憫も憎悪もなにもない、本当になにもない表情だった。
「お大事に」
幸世はカーテンをむこうに去っていった。




