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午後五時近く。太陽はようやく夕日に変わろうとしている。
智朗は『カーサ・デ・ソル』に近づきながら二階をみつめる。
二〇一号室のカーテンは開いていた。仇の妻は、家にいる。
二〇二号室のカーテンは閉じられている。
朝、仇がいつもの時刻に出勤して駅に入ったのを確認した智朗は、一旦戻ってこの付近をうろつき、二〇二号室の様子を窺った。しかし誰も出入りする様子はなかった。そしてそれは今も変わらない。昨日の自殺騒ぎの影響はないと最終的に判断する。
智朗は深呼吸する。もう一度、さらにもう一度、深呼吸した。
「よし」
外階段を上り、二〇一号室のチャイムを鳴らす。
「はーい」
のどかな返事に続いて身重な仇の妻が近づいてくる音が聞こえた。
「どなたですか?」
「こんにちは。久里浜駐屯地に勤務しております中島といいます」
扉越しに誰何に、智朗は声が上擦らないように練習した台詞を口にした。
「はい?」
「今井靖男さんはご在宅でしょうか?」
しかし仇の妻の答えは当然「いえ、まだ帰ってませんが」だった。
「私、今井さんが使われていた机を使っているのですが、引き出しから今井さんの私物が出てきまして。それをお届けに参りました」
ドアスコープが黒くなった――仇の妻が見ているはずだ。智朗は一歩下がって姿勢を正すとキャップを外して深々とお辞儀をした。
刈ったばかりの五分刈り頭を見せつける。
智朗なりに考えた『休日の新人自衛隊員のイメージ』に騙されたのか、「ちょっと待ってくださいね」の声に続いて、鍵が外されていく音がする。
智朗はボディバッグから仇が忘れて逃げたあのナイフを取り出して、後ろ手に隠し持つ。
「どうもすみません、わざわざありがとうございます」
「コレなんですが」
姿を見せた仇の妻に、智朗はボディバッグを手渡す。
「えー、こんなの持ってたかな?」
「あの……お腹、大丈夫ですか?」
「平気ですよー」
にこやかに応じてポーチバッグを検める仇の妻の鼻先に智朗はナイフを突きつけた。
「しっ、静かにしてください」さすがに少しどもった「下がって、なかに」
タクシーは優徒と二度行ったコンビニの前で停車した。
(お父さん、お母さん、先生、ごめんなさい)
編入手続きの為に預かっていたお金から運賃を払ってタクシーを降りた明日美は『カーサ・デ・ソル』を見上げる。
先日の部屋のカーテンは開いているが、人影は見えない。ここからは天井と電灯が見えるだけだ。
明日美はコンビニに入ると店長を捕まえて、拝借してきた写真を見せる。
「この人、知ってますか?」
穴だらけの異様な写真を見せられて、店長は警戒の眼差しを明日美に向ける。
「この人を探してるんです! お願いします! あのアパートの人じゃないんですか?」
「そう、かな」
渋々といった具合に店長は認めた。
「ありがとうございます」
駆け出す明日美を店長は不安げに呼び止める。
「ちょっと! なんなの?」
「わっ、わたしのお兄さんです! 生き別れ! ずっと探してたんです」
口から出まかせを残して明日美はコンビニを出た。
明日美は開いていた件の部屋のカーテンが今は閉まっていることに気づかなかった。
部屋に押し入った智朗が最初にしたことは、仇の妻から携帯電話を奪うことだった。
それを使ってある写真を撮り終わると、彼女の大きな腹に乗せていたある物をのける。
「大丈夫です。安心してください」
大判のテープで口を塞がれ、自分を見ている妊婦に智朗は努めて穏やかに話しかける。
さきほどの写真を待ち受け画面に設定し、その携帯電話でメールを一通送る。
「本当にすみません。あなたを傷つけたりはしないので、信じてください。落ちついて気を楽にしてください。赤ちゃんのためにも」
仇の妻は腰の後ろで交差させた手首を結束バンドで十字に縛られている。壁にもたれて座り、前に伸ばした両足の膝と足首を同じく結束バンドで絡げられている。樹脂のバンドとはいえ業務用で幅も広い。素手の力づくでどうこう出来る代物ではない。
動揺はしているが、怯えた様子はあまりないので智朗は安心した。
智朗の目には今にも産気づきそうで壊れ物に見える妊婦である。人質としては非常に厄介で気を遣う。
仇の家族なんかどうなろうとかまうもんか――いざとなればそう開き直れるかもしれないが、できればこの女性もお腹の子供も危険に晒したくはない。
「オレが用があるのは、今井靖男だけです。あなたは大人しくしていてください。いいですね?」
しかし仇の妻は頷かない。口を塞がれたまま不明瞭に何事か訴えた。おそらく「やめて」だろう。
「やめません。無理です」
仇の妻は涙目でまた喋った。おそらく、夫になんの恨みがあるのか、夫が何をしたのか、というようなことを訊いているのだろう。
それに答えるつもりはなかった。
「静かにしてください。睡眠薬も準備してますけど、お腹の子に影響が出るから使いたくありません。協力してください」
智朗ははったりで仇の妻を黙らせた。
そのとき呼び鈴が鳴って智朗は思わず身を震わせた。まさかもう仇が帰ってきたのかと焦るが、時間的その可能性は低いと自分を落ち着かせる。
期待を込めた目を玄関へ向けている仇の妻の前にしゃがみこみ、ナイフで凄む。
「静かに。声を出したり騒いだりしたら……」智朗は玄関を指差す。「今来たヤツを殺す。いいな?」
仇の妻の目に反抗と怒りの色が見えた。
「いいかっ」
智朗が潜めた声で恫喝すると、仇の妻はようやく頷いた。
足音を忍ばせて玄関へ近づくうちにまた呼び鈴が鳴る。仇なら鍵を開けて入ってくるはずだ。勧誘や来客ならこのまま居留守で乗り切ってやろう。
智朗はそっと扉に近づいた。
そのとき――
「こんにちはー。すみませーん! ごめんくださーい」
聞き覚えのあり過ぎる声。
「はぁ!?」
思わず声を漏らして、智朗はドアスコープを覗きこむ。
果たして、扉のむこうにいるのはやはり明日美だった。
(なんで!?)智朗は混乱した。(なんで明日美!?)
「すみません! 大事な話があるんです。開けてください」
しつこい呼び鈴と切羽詰まった明日美の声。居留守が通じるとは思えない。
しかしなんとか追い返さないと。焦った挙句に智朗は精いっぱいの低い声、作り声を絞り出した。
「誰ですか?」
「城戸っていいます。大事な話があって。その……松川さんって人、知ってますか?」
明日美は一体なにをどこまで知っているのか。智朗の困惑に拍車がかかる。
「そんな人知りませんけど」
「智朗くん?」
明日美があっさりと見破った。
「なにを……」
「智朗くんでしょ」確信して笑みを帯びる明日美の声。
智朗が窮している間に明日美がたたみかけてくる。
「よかった! 探した! 開けて。そこでなにしてるの? ここ、誰の家?」
「いいから帰れよ明日美!」
やけくそになった智朗は素の声に戻った。
「そっちこそ開けてよ。開けろ! 人呼ぶよ! 警察呼ぶぞ!」
扉を叩く蹴るしてくる明日美。
このままでは本当に人が集まってきかねない。智朗は観念した。
ナイフの刃にタオルを巻いて後ろ腰に差し、扉を開けた。
安堵の表情を浮かべていた明日美は、智朗の坊主頭に気づいて目を丸くした。
その隙に彼女の手を掴んで引き入れる。
「智朗くん!」
「静かに! こっちきて」
靴を脱ぐ間も与えず強引に居間へ連れこむ。
明日美はすぐに口を塞がれて座っている女性に気付いて目をむく。
「なにしてんの!」
「しゃべんな!」
ナイフを見せると明日美は小さく悲鳴を上げて、それでも気丈に持ち直した。まなじりを強く固めて智朗をにらむ。
二人ともしばらく無言になる。
ややあって明日美が口を開く。
「ここの男の人、殺すつもり? その人が、お父さん殺したって人?」
「しゃべんなって!」
智朗は声を潜め、横目で仇の妻を示した。
それで明日美もなにかしら察したようだ。口をつぐみ、気づかわし気に仇の妻を見た。
仇の妻はいうと、さきほどの明日美の言葉が飲み込めたようだ。問いかける眼差しを智朗に向けた。
「ああ! もう!」
智朗は癇癪を起して地団太を踏んだ。それを大事な時期の妊婦に知らせるつもりなどなかった。もし知らずに、この状況で初めて聞かされた場合のショックを慮ってのことだった。それなのに、台無しだ。
「とにかくおまえも縛る。いいな!」
「嫌よ!」
「いいから手ぇ出せ!」
「嫌だって言ってんだろ! なに、今度はSM!?」
「言うこと聞け!」智朗は仇の妻に駆け寄り、その顔にナイフを突きつけた。「コイツ、殺すぞ」
「智朗くん!」
「コイツは、父さんの仇の女だ。どうなったって知るか!」
自棄になった智朗もそれを口にした。急に涙を流し始めた仇の妻に胸が痛んだが、もう引き返せない。
「ゆっくりでいいから、座ったままこっちに」
顎で仇の妻にソファーを示す。
仇の妻は泣きながらも足と尻でソファーの前まで這ってきた。
智朗はソファーの隙間にナイフの柄を押し込んで固定する。ソファーから刃が生えたような状態にし、その切っ先ギリギリに仇の妻の脇腹が当たるようにする。
「動くなよ」仇の妻を挟んで刃の反対側で命じると、続けて明日美を呼ぶ。「こっちこい。抵抗したらこのおばさんを押すからな」
こんな咄嗟の思いつきな仕掛けが、実行したところでどれほど殺傷力があるか智朗にはわからない。
しかしそれは明日美も仇の妻も同じだったようだ。
仇の妻はじっと動かない。
明日美も従い、大人しく縛られた。




