53 第十四章 八月十六日
「いってきます」
「いってらっしゃーい。気を付けてね」
盆休み明け初日の八月十六日朝、スーツ姿の靖男はいつもと変わらず杏子に送られて家を出た。
駅へ着くと、しかし会社とは反対の大和方面行きの電車に乗り込んだ。
杏子には内緒にしているが、午前中は休みを取っていた。
大和駅で降りると、駅ビル内のコーヒーショップで時間を潰した。九時を過ぎると店を出て小田急の線路沿いの道を歩く。
恨めしいほどの快晴。すでに暑い。遠慮なく肌を圧してくる日差し越しに「来るな」と拒まれている気がした。靖男は何度も足を止めたが、その度に勇を振るって足を前に出す。
駅から離れるにつれて緑が増えてくる。道に沿って雑木林が続いている。大和中央森林地区というらしい。
ふと足を止めて耳を澄ましてみるが――
「いない、か」
これだけ緑があっても、やはり蝉の声は見つからない。
油に沈んだような暑さのなかを、また歩いた。
ほどなくして目指す霊園の前に立つ。まず駐車場があり、そのむこうに墓が整然と並んでいるのが見えた。あそこにあの男性が眠っている。自分が《標的》としてその命を奪った松川修也が。
興信所を使い、松川修也の墓がここにあるのはとうに知っていた。しかし今日までどうしても訪れることができなかった。
盆のうちに訪れるべきだったのかもしれないが、自身の両親への墓参りや杏子の実家への帰省と、常に杏子と一緒であった為にそうもいかなかった。それに遺族と鉢合わせすることは絶対に避けたかった。
しかし今日は命日だ。この日こそと心に決めていた。
盆明け早々とはいえ命日なので遺族や親族との鉢合わせもあり得る。そこでこうして朝一番で参ることにした。
霊園の門そばに守衛詰め所のような小屋があった。関係や身分を明かさなければならないのだろうか。
緊張しつつ墓参りをしたいと告げると、図を使って松川修也の墓の場所を教えてくれた。なんの詮索もされなくて安心した。
墓所には他に人影はない。昨日までお盆だったからだろう。ほとんどの墓が清められて花が供えられている。
墓はどれも真新しく見える。実際一人分しか戒名・俗名が刻まれていない霊標が多い。
公殺されると先祖代々の墓に納めるのを忌避される場合も多いと聞いたことがある。
世間体を気にするあまり、他人様に殺されるほど恨みを買うような者を一族代々の墓に入れるわけにはいかない、死後に縁切りされるというわけだ。そういった者は独り新規の墓をあてがわれる――そんな噂を耳にすることがあったが、どうやらあながち嘘ではないようだ。実際ここにくるまでの林に新規墓地反対という看板が立っていた。
教えてもらった場所に新しい墓を見つけた。霊標を確認すると『俗名 松川修也』とある。没年は平成二十三年八月十六日。間違いない、《標的》の墓だ。傍らにはもう一人分の名が刻まれている。独りで眠っているわけではなさそうだ。すこしだけ安堵する。
手を合わせて頭を垂れた。
「赦してください」
ただ一言、絞り出す。
参っても、罪悪感が消えることはなかった。
神仏か松川修也の御霊が現れて罰か赦しを与えてくれることもなかった。
「どうか赦してください」
もう一度、涙ながらに頭を垂れる。
顔を上げた靖男は、松川修也に寄り添い刻まれているもう一つの名前をよく読む。俗名は松川香織。没年は平成二十四年四月。
靖男は顔に分厚い平手を張られたような衝撃を覚えた。公殺代行の際の資料で知っている。松川修也の妻だ。
「なんで……」
なぜ松川修也の妻まで死んでいるのだ。
夫のあとを追って自殺したのか。だとしたら、自分は二人の命を奪ったことになるのではないか。
靖男は打ちのめされた。
なにか事情があって妻も公殺されてしまったのか。それとも病気や事故で命を落としたのだろうか――ここでいくら考えても、分かるはずもない。
靖男は思いだす。
一年前のあの晩、死んだ父親と殺した靖男を呆然と見ていた少年を。そして彼の悲鳴を。
両親を失ったあの少年は今、どうしているのだろう。
少し風変わりな名前だった記憶があるが、思い出せない。
命日である今日をどんな気持ちで過ごしているのだろう。
蝉も鳴かない夏の日差しに、靖男は悄然と焙られ続けた。




