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吠えない蝉  作者: 野間義之
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51 第十三章 八月十五日

 琴美(ことみ)は目を覚ました。窓の下から人声がする。

 ローテーブルにつっ伏して寝てしまっていた。しびれた足の周りには空になったビールや酒瓶が転がっている。

 時計を見ると、午後二時半過ぎ。

 昨夜からつけっぱなしになっているクーラーのせいで肌寒い。もっと寒くしておけば凍死できただろうかと埒もなく思いながら、琴美はしびれた足を引きずって這い寄り、窓を開けた。

 外は曇っているが、それでも蒸す暑気が一気に室内になだれこんでくる。 

 正面の渡部(わたべ)幸世(ゆきよ)と子供たちの部屋を見る。閉められた掃き出し窓のむこうにカーテンがかかっている。今日は幸世が居て子供たちのためにクーラーをつけているのだろうか。

 下を覗き見ると見慣れない車が止まっていて、隣人夫婦が荷物を降ろしていた。

 そういえばレンタカーで杏子の実家に泊まりに行くと言っていた。今帰ってきたようだ。

「俺が持つから」

 靖男(やすお)がきびきびを動いている。杏子(きょうこ)が荷物を持つ先から奪い取っていく。

「靖さん一人で何往復する気?」

「いいから。先に部屋入ってクーラー効かせといて」

「了解であります」

 おどけて敬礼した杏子が外階段を上ってくる。

 相変わらず睦まじい様子が伝わってきて、それが琴美を一層落ち込ませた。

 昨夜こそ幸世に殺されたかった。しかし相手にもされなかった。

 自棄酒をあおるしかできず、せめてもの腹いせに幸世のたった一つの要望を無視してカーテンを全開にして下着姿で眠った。今となってはそれさえ惨めの上塗りだった。

「バカじゃないの……」

 向かいの窓から視線を感じる度に、歯ぎしりして覗いている幸世を想像していた。琴美にとってそれが唯一、企みが進捗していると実感できる瞬間だった。

 しかしそれは子供の性への好奇心を刺激しているに過ぎなかったのだ。

 気恥ずかしくてたまらない。この部屋が自分の恥部そのものに思えてくる。

 そこまでしても、あの渡部幸世という女が自分を殺すことはないのだ。

 もうなにもかもが嫌になった。

『殺されてお詫びせい! そん人が殺しきらんて言うないば、我がから死ね!』

 父の言葉が思いだされた。

 死んでお詫びしろ――そうなるように仕向けてきたつもりだったが、とんだ空回りだった。

 幸世が殺せないなら、自分で死ね――もうそうするしかない。

 琴美は幸世に返された薬の瓶を手に取った。

 茶色の瓶を陽光にかざすと、半分以上残っている中身がさらに濃い茶色の影になって揺れた。

 外を向いてベッドに腰掛けると、コルクを抜いて一気にあおった。死ぬには充分な量のはずだ。

 説明書には無味無臭とあったが、かすかに苦かった。

「うそつきばっかり……」

 枕元のアナログ時計をみつめる。

 一分、二分と経つにつれて、じょじょに体が熱くなり、汗が吹き出し、息が苦しくなってきた。

 体を起こしていられなくなり、ベッドに伏せた。

(ああ、あの人もこんな風にしてたな。きついなーこの薬。ごめんなさい)

 水谷のことを思いだす。

(死んだらまた会える、なんてね。もう顔もみたくない……)

 誰が最初に私の死体を見つけるんだろう――たぶん、杏子と靖男の夫婦だろうなと思う。

(杏子さん、変なショック受けなきゃいいけど)

 もがいているうちに、体がベッドから落ちた。



「こんにちは」

 このカーサ・デ・ソルへの引っ越しの最中、玄関先で背後から声をかけられて琴美はギクリと振り向いた。

(もう来たの!?)

 しかしそこにいたのは渡部幸世ではなく、見知らぬ男女だった。

「はじめまして。隣の今井と申します」

 いかつい大柄な男が背筋を伸ばしてそう挨拶した。堅苦しい物言いだ。

 その隣で笑みを浮かべた小柄な女が会釈した。

 夫婦だろう。どちらも自分と同年代ぐらい、二十代後半か三十歳といったところだろうか。

 男は奥さんの分まで両手いっぱいにエコバックやスーパーの袋を提げている。夫婦揃っての買い物から帰ってきたところのようだ。

 目の前のありふれた幸せな光景に胸を痛めながら琴美は頭を下げた。

「どうも。早川といいます」

「なにかお手伝いしましょうか?」

 女性が気さくに訊ねてきた。

「いえいえそんな。業者さんがやってますから。それに……」

 遠慮がちに彼女の腹部に視線をむける。手足の細さに見合わないゆったりとした服は妊婦用だと分かる。

「わたしじゃなくて旦那が。力仕事しかできない人だけど」

 男の二の腕を叩いてみせる。随分な言い草だが、その旦那はといえば苦笑してみせただけで気を悪くした様子もない。

「大丈夫ですよ。一人暮らしでたいした荷物じゃありませんから」

 隣人たちは驚いた。一人暮らしには贅沢な物件なのだから無理もなかった。



 その数日後。

「それじゃさっそく今夜から」

 予定を尋ねられるでもなくそう告げられて面食らいはしたものの、断る理由もなく琴美は頭を下げた。「よろしくお願いします」

 こんなご時世だというのに、履歴書に書いた以上の身の上を問われるでもなく、クルリと回って立ち姿を見せただけで簡単に採用になった。水商売というのはこうしたものなのだろうか。

 ともあれ、これで働く先が決まった。

 藤沢のキャバクラだ。経営者はキャストの人柄と話術重視の高級良俗店と言っているが、実際は体を触らせる風俗まがいだ。客の金払いによってはそれ以上のことも黙認している。そしてなにを触るにせよ飲み食いするにせよ、高額だ。充分に違法店舗なのだが、そんなことは琴美にはどうでもよかった。

 幸世に見せつけるための男が釣れればそれでいいのだから。

 まさか面接当日から働くことになるとは思っていなかったので、なんの準備もしていない。まだ時刻は十五時過ぎ。このまま藤沢で夜まで潰すには時間がある。

 衣装は当分店が貸してくれるという。しかし化粧品はどうだろう。最近では念入りに化粧などする気力も湧かなかったので、バックの中には口紅やフェイシャルシートといったコスメとも呼べないような物しか入っていない。

 さすがに夜の店で働く以上、化粧は暗黙の義務だろう。しかたがない。億劫だが一度アパートへ取りに帰ることにした。

 アパートの最寄り駅である高座渋谷に戻り、駅舎を出てすぐのこと。ほど近くにある小さな公園のベンチに座っている女性が目に入った。

「あれ……」

 隣の奥さんではないだろうか。

 日陰のベンチの背にしなだれかかっている。

 もう六月。日差しは夏のそれに近く気温も高い。妊婦が出歩くのはあまり感心できない気候だった。

 彼女はぐったりとした様子で目を閉じていて、琴美に気づいていない。

 近所付き合いなどする気のない琴美は気づかぬ振りで行ってしまおうかと思った。

 しかし遠目にも隣人の様子は辛そうだ。

「こんにちは」

 近づいて声をかけると、彼女は顔を上げた。「あら、早川さん」と無理に笑おうとする顔は血の気が薄い。

「大丈夫? 具合悪い?」

「少し。今でも時々つわりっぽいのが来ることあって」

 彼女の脇に置かれたエコバックから大根や卵、それに練り物が覗けた。

「だったら買い物なんか」

「行くときは平気だったんだけど」

「妊婦さんなんだから買い物なんて旦那さんに『仕事帰りに買ってきてー』って電話すればいいのに」

 冗談めかす琴美に、彼女は首を振った。

「ヤスさんの好きなの作って、びっくりさせようと思って」

「なに作るの?」

「おでん」

「ちょっと季節外れじゃない?」

「最近お疲れだから。ここは好物を食べさせてあげないと。スジ肉がっつり固まりで的な」

「奥さん、もうママみたい」

「そう?」

「今からもうそのレベルだもん。奥さん絶対いいママになる」

「だといいけど」

 他愛なく喋りながら琴美は考える。救急車を呼ぶべきだろうか。それともタクシーで病院へ連れていくべきだろうか。大げさに考えるなら、ふたつの命がかかっている。

「できれば杏子(きょうこ)って呼んで。あんずの子で杏子。奥さんって呼ばれるの、なんだか照れる」

「そう?」

「わたしは、なんだか苦手」

(アタシは、そう呼ばれたかったけど……)

 琴美がそう思っていると、隣の奥さん――杏子から「早川さんは?」と訊かれてギクリとした。

「アタシ、独身」

 杏子が自分のしたことを知っていてからかっているのではないかと、一瞬でも被害妄想じみた勘繰りをしてしまう。

「ごめんなさい。そうじゃなくて、早川さんの名前」

「琴美。楽器の琴に美しい」

「琴弾けるの?」

「まさか。響きだけでつけられた名前なんだから」

「きれいな名前じゃない。ことみ。うん、かわいいし」

 琴美は、杏子のお腹を見てぴんときた。

「そっかー、名前が気になる時期なんだ?」

「そう」

「男の子? 女の子?」

「聞いてないの。『生まれるまで知らないでいい。それが自然だ』ってヤスさんが言い張るから」

「えー! 今時そんな主義?」

「そう。ちょっと古いの」

 可笑しそうに笑う杏子の顔に赤みがさしてきて、琴美は安堵した。

「お喋りしてたら気分よくなってきた」

 これなら病院へ行く必要はなさそうだ。

「ちょっとまってて」

 琴美はコンビニで水と黒い傘を買ってくる。水を渡すと、杏子の荷物を引き受けた。雨傘を日傘代わりに杏子へさしかけると連れだってゆっくりとアパートへ向かう。

「ホントにありがとう。助かったし、嬉しい」

「そんな。大袈裟」

「ううん。そんなことない。三十分ぐらいあそこでジッとしてて、声かけてくれたの琴美さんだけだもん」

 あんなに体調が悪そうな人間を誰もが見て見ぬ振りをしていたというのか。自分もそのつもりだったとはいえ、さすがにぞっとするものがある。

「やっぱり皆、面倒なことには関わりたくないのよね」寂しそうに杏子がつぶやいた。「アレのせいで人間がどんどん冷たくなった気がする」

「そうね……」

「あんな法律に負けない絆を大事にしよう、なんて最初はみんな言ってたのにね」

「うん」

「わたしって、逆恨みして誰かを殺したりするような人間に見えますかっていうの」具合がよくなったからかよく喋るようになる杏子。

「それに、あんな法律、真に受けて人を殺す人間なんかそうはいないわよねぇ?」

「うーん、そうかな? うん、滅多にいないだろうね。ゼロじゃないだろうけど……」

 歯切れ悪く応える琴美。

 やがてアパートへ到着した。

「お茶でも飲んでいって」

 わざわざ居間のソファーに腰を下ろすところまで付き添ったというのに、また立ち上がりかける杏子に琴美はあわてる。

「アタシは帰るからいいよ。杏子さんは休んでて」

「そう? うん。ありがとう」

「また具合悪くなったりしたら呼んで」つい言ってしまった手前、琴美はスマートフォンを取り出した。「番号、教えて」


 ようやく自宅の玄関で一人になると、琴美は上がりがまちにしゃがんで膝を抱えた。

『あんな法律、真に受けて人を殺す人間なんかそうはいないわよねぇ?』

「ここにいるってんだよ」

 杏子に悪意がないことはわかっている。知っていて当て擦ったわけではないことも。

 それでも胸が痛んだ。自分の愚かさがまた身に染みて、惨めになった。

 夕方になり、初出勤に備えて身支度を整える。

 鬱々と泣いているうちにむくんでしまった顔を気にしながら靴を履いていると、自分のような生きる資格もない札捨て女が働いてなんになるというのだという思いが強くなる。

 それでも、生きなくてはいけない。死ぬまで。殺されるまで。

 呼び鈴が鳴る。

 あまりのタイミングに心臓が跳ねる。

 渡部幸世が訪ねてきたのか。

「琴美さーん、いるー?」

 杏子の声だ。拍子抜けして膝が崩れかける。

 玄関の扉を開けると、すっかり元気になった杏子が小ぶりな鍋を差しだしてきた。

「さっきはありがとう。これ、お礼におでんのおすそ分け。もう少し置いてまた煮込んだ方がいいかもだけど」


 こんなことがきっかけで杏子とはそれなりに近所付き合いをするようになった。

 人間として魅力的な女性だと思う。

 自分も杏子のように生きたかった。

 そして――

「赤ちゃん、会いたかったな」

 たった一つの猛烈な心残りに気づきながら、琴美は意識を失った。

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