50 第十二章 八月十四日
「ねえ、もう起きてくださいよ」
肩を揺すられて、琴美は目を覚ました。
見知らな部屋と知らない青年だった。二十歳前後ではないだろうか。気弱そうな印象だ。
琴美は床に敷かれた毛布の上で、全裸にタオルケットだけを掛けて横になっていた。体の節々が痛むし、尻や股間が疼く。頭痛もひどい。
しかめ面で上半身を起こすと胸を隠して訊く。「誰だっけ?」
「名前とかいいでしょ。そう言ったじゃないですか。勘弁してくださいよ」
精一杯に強ぶった口ぶりで青年は琴美の衣類とバッグを突き渡してきた。
「着たら、出ていってください」
「ちょっと待ってよ。頭痛い」
琴美が訴えると青年は離れていった。青年が消えた先で食器を扱う音がした。
ここはワンルームマンションのようだ。狭く、大学生らしい青年の持ち物が乱雑に溢れている。ソファーを置くスペースもなく、だから琴美もベッド脇の床に寝かされていた。さぞ邪魔だっただろう。
琴美はひとまず服を着る。深紅のパーティードレスのせいで、大学生に呼ばれた訪問風俗嬢にでもなった気分だ。
バッグを開ける前に青年が戻ってきた。水と、解熱鎮痛剤と書かれた市販薬を差しだしてくる。
「ありがとう」受け取って飲む。
身動きする度に尻がギリギリと痛み、つい手をやる。肉も奥も痛む。そういう嗜好の奴がいたなと思い出す。
「大丈夫ですか?」
「ちょっと、ね」
今更ながら、さすがに気はずかしかった。
「それはオレじゃないですからね」
「はぁ?」
「あなたがなんでも……ヤリたいコトしていいって言うから先輩も調子に乗って。悪かったですよ……」
「いいけど……何時?」
「四時五十分です。夕方の。ちなみに、今日、十四日です」
「そう……」
どこだかは知らないが、この部屋に来て丸一日以上ということになる。
一昨日の夕方に幸世の弁当屋で老婆に一喝されてから、琴美は勤め先のスナックへ顔を出した。自分の部屋には戻りたくなかった。
盆前の最後の営業日とはいえ、前日の土曜日から近辺の会社は軒並み盆休みに突入していた。客は少なく、予定外に出勤してきた琴美に出番はなかった。
キャストの待ち部屋で勝手に一人飲み始めた琴美は悪酔いしてすぐに店から追い出された。
開いている店に飛び込む。飲んで騒いで、追い出されては、別の店にといったことを繰り返しているうちにとうとう足腰が怪しくなってきた。
泥酔して道端に座りこんでいる琴美に声をかけてきたのが、目の前の青年を含む数人の若者たちだった。
彼らも酔っていた。
「お姉さん、フェラしてよー」
一人がからかい半分に一物を出すと、琴美はためらいもなく手に取り、口にふくみかける。
さすがに一旦は尻込みした青年たちであったが、性欲と好奇心が勝ったようだ。介抱を装い、タクシーで琴美をこの部屋へ連れこんだ。
「やばいですよ。あとで恨まれたりしたら……」
誰かがリーダー格らしき男を止めようとしているのを琴美自身が嗤って遮った。
「だいじょうぶだいじょーブー。アタシ、もう、札無しちゃんなんだから」
さすがに馬鹿なことをした、と琴美は顔をしかめる。
酒を飲まされ続けて、なにか薬も嗅がされたような気もする。若者たちに思うさま弄ばれる間、何度か吐いた記憶がある。
丸一日以上も異様な情事に耽った末に彼らは解散して、この青年は後始末を押し付けられたようだ。彼は他の者を先輩と呼んでいた。目上には逆らえずに部屋を提供させられたのだろう。
全身が痛みや不快感を訴えていた。
肌という肌がつっぱる。陰毛はごわごわに固まり、指を入れると雄が抜き捨てたものが留まり満ちていた。不快だ。しかも傷む。
察した青年がティッシュを渡してくる。
「着けなくていいっていうから……」
「もういいから。よかったら、シャワー使わせてもらえる?」
シャワーを浴びながら、琴美はうずくまって泣いた。
シャワーをすませ改めて身支度を整えると、青年が幾枚かの紙幣を差し出してきた。
「あの、一応、みんなで……」
琴美はためいきをついて首を振った。
「いらない」
「でも……」
「殺したりしない。アンタも、お友達も、もう、誰も。言ったでしょ。アタシ、札無しなんだから。それより、なんかお酒ある?」
青年から缶ビールを受け取り、琴美はその部屋を出た。青年に教わった道を歩きながら、あっさりビールを飲み干す。
駅に着いた。藤沢から数駅の町だった。
ホームのベンチに腰掛け、コンビニで買い足したビールに手を伸ばす。
なにも知らずに相手の浮気を疑って。浮気の相手は自分だというのに。
なにもせずにはいられないからと、なんとなく毒を飲ませ。
覚悟も固まらないまま相手を殺してしまい。
遺族には詫びもせず。
殺してもらおうとわざわざ遺族の近所に引っ越して。
未亡人に見せつけるためだけにどうでもいい男に体を開き。
知らない老婆には説教をされ。
子供のオモチャにされ。
一人で勝手に堕ちるところまで堕ちた――そんな想いだった。
飲むほどに、考えるほどに惨めさが沁みてくる。
「もういや」
手に力がこもる。缶がひしゃげた。
数時間後――。
タクシーを降りた琴美は千鳥足で渡部幸世が住まうアパートの外階段を上った。
勢いづけのつもりで懲りずに藤沢で飲んでいるうちに、時刻はもう夜の十時近い。
呼び鈴を鳴らし、その反応が返ってくるのも待たずにドアを打つ。
「ヤリチン水谷誠の女房とガキ、出てこーい!」
ガラの悪い声を張り上げる。
扉からやや離れたところから声がした。
「なんの用ですか。帰ってください」
誰何はなかった。ドアスコープを覗くまでもなく琴美だとわかっている。
「なによ! アタシが誰だかわかってんでしょ!」
「帰ってください」
「出てこいって言ってんだろ!」
扉を蹴る琴美。その剣幕に観念したのか、「待ってください」と応えてきた。
「オレもいく!」
声変わり後の少年の声がした。上の息子だろう。
「いいから。いなさい」
「お母さん! 包丁! 包丁!」
幼い弟の声もした。
母親が、父親を殺した女に包丁を突き刺すことを望んでいるのだ。まだ小さな子供が。
この国の異常さと己への罰を象徴する声と言葉が、琴美の酔いをやや薄めた。
玄関の扉が用心深気に開き、素早く相手が出てきた。なかを覗く隙も与えず扉が閉められる。
琴美が公殺した水谷誠の妻だった女、幸世。緑のポロシャツにデニムというこざっぱりとした恰好だ。包丁は持っていないが、小さな紙袋を携えている。
「そちらのお部屋に行きましょうか」
幸世はスニーカーをつっかけて先に歩き出す。毅然としていて、居丈高さも卑屈さもない。足元がおぼつかない琴美が階段を上り下りする際は気遣う素振りさえ見せた。
それを突っぱねる琴美の頭は、手すり頼りな体とは対照的に明瞭に落ち着き始めていた。わずかに残ったアルコールが、いよいよ殺されるのだという予感に反応して恍惚とした心境を生み出している。
琴美が無言で玄関を開けると、幸世は「おじゃまします」と会釈して入った。
二人はベッドの横に置かれたローテーブルを挟んで座る。
「カーテンを閉めてもらえますか」
幸世に頼まれて、『この女はいよいよアタシを殺すつもりだ』と思った。
覚悟や期待とは裏腹に足が震えて立たなかった。それを悟られないよう、面倒そうに掃き出し窓へと這っていく。真向いのベランダにふたつの人影が見えた。
カーテンを閉めた琴美が差し向かいに戻ってくるのを待って、幸世が訊いた。
「なんの御用ですか?」
「わかるでしょ」
「わかりません」
「アタシ、水谷を殺したのよ」
「知ってます。警察から資料もいただいたし、興信所もいろいろ売り込んできましたから」
「だったら……アタシを殺そうって思わないの?」
「思いません。ここに越してきたり、お店であんなことしたり、やっぱり、私に殺されようって思ってたからですか?」
「そうよ」
「これを送ってきたのも?」
幸世は紙袋をテーブルに置いた。中身が何かは知っている。
「あなたが望むようなことは、絶対にしません」
ゆるぎない幸世に圧倒される
「なによ……」琴美は負けたくなかった。「すましてんじゃないわよ。アンタ、覗いてるんでしょ。ここでアタシがいろんな男に抱かれていい思いしてるの。水谷とも散々愉しんだわよ! 下手くそだったけどね。あんな男で満足してたくらいなんだもの。ろくに男なんか知らないんでしょ! そんな貴重な男を殺しちゃって悪いことしたね」
夫と不倫した挙句に殺したクズにここまで言われて悔しいでしょ? 惨めでしょ? 殺しなさいよ!――琴美は待った。
しかし幸世はわずかに眉を吊り上げただけだった。それもすぐに元の位置に収まる。
「ひとつ、お願いがあります」
「なによ?」
「セックスや着換えのときは、きちんとカーテンを閉めてください」
無関心を装っていても、見せつけてやったあの痴態でこの女の心を少しでもかき乱せていた――惨めさのどん底でカスのような希望の光を見たのもつかの間、続く幸世の言葉はそれをあっさりと消し去った。
「長男が覗いているんです。中学生といっても、まだそういうのをストレートに見せるにはちょっと早いですから」幸世は立ち上がった。「なにがあっても、私はあなたを殺しません。誰も殺しません。子供たちもそうです。そうさせるつもりです。難しいですけど。ですから、もう構わないでください」
幸世は立ち上がり、去りかけて足を止めた。
「それはお返しします」紙袋を目線で差す。「安心してください。あなたのお弁当に混ぜたりしてませんから」
幸世は出ていった。玄関の扉を閉める音さえ丁寧で矜持を帯びているようだ。
琴美は思いしらされた。自分のしてきたことが、幸世になんの痛痒も与えてはいなかったことを。
紙袋の中を取り出す。水谷を殺したあの薬だ。ここに越した時にわざわざ名前も住所も明記して送っておいたものだ。
できることならこの薬を使って殺してほしかった。だから頻繁に幸世の店で食事をした。
しかし、幸世の言葉通り、薬は減っていなかった。




