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吠えない蝉  作者: 野間義之
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 時刻は少し戻る。


 明日美(あすみ)が去り、居間に戻った智朗(ともろう)はソファーに座りかけて、思い直して床に胡坐をかく。

 たたまれたタオルケットが乗ったソファーを見るともなく見て、しでかしたことを振り返る。

「あぁー」

 気の抜ける叫びとともに智朗は後ろに倒れる。床に頭をぶつけた痛みなどどうでもよかった。

「くそ」

 髪をかき乱して頭を抱える。

 寝込みを襲って迫るなんて明日美にしたことはなかったし、自分はそんな人間ではないと思っていた。

「サイアクだ」

 追いかけてもう一度、何度だって謝るべきだ。

(でもなぁ)

 あの怯えた姿が、追うのを躊躇わせた。あんな彼女は見たことがない。


 明日美が今も智朗を訪ねてくるのは、元カレだから友達だからで、放っておくにしのびない境遇だから――ただそれだけなのかもしれない。

(そりゃそうだよな)

 智朗から一方的に別れると告げたのだ。気にかけてもらえるだけでもありがたいというものだ。

 明日美はそれ以上に接してくれた。嬉しかったし、だから自惚れて明日美を低く見てしまっていたのかもしれない――セックスぐらいやらせてくれるだろう、と。

(ひょっとしたら……)

 明日美の本心は違ったのかもしれない。

 今も好いてくれている素振りをしてみせて、いざとなったら突き放す――それが彼女の意趣返しだったのではないだろうか。あの怯えも智朗を悩ますための芝居で、今頃は舌を出して笑っているんじゃないか。

 智朗は首を振る。明日美こそ、そんな人間ではない。

「でも、だったらさぁ……」

 明日美への困惑や後悔や自己嫌悪がない混ぜとなって頭を抱えさせる。何度も床を転がった。腕立て、腹筋と体を動かしても気は紛れない。

 ふと、ローテーブルの精霊馬と目が合った。楊枝を刺しただけのキュウリに目などないが、そんな気がした。父と母の顔が浮かぶ。揃って呆れ顔だ。

 智朗はいらだち、皿ごと精霊馬にラップをかけて冷蔵庫に突っ込む。

 二階の自室へ戻る。ここを見られずに済んでよかった。

「ゴーミやぁしき、ゴーミやっしき」

 明日美が言いそうなことを自棄に口ずさむ。

 居間などは最低限きれいにしようと心がけているが、自室は本当に散らかっている。

 床に散らばっている格闘技のハウトゥ本やダンベルの類はまだ誤魔化せるが、机の上の物はどうだろう。むき出しの機械類にニッパーやペンチ、はんだごてなどの工具類、そして初心者向けの電気工作のハウトゥ本が雑然と置かれている。

 小さなリモコンスイッチを手に取り押してみると、反応して机上の基板のLEDが小さく赤く点った。

 ささやかな達成感がほんの少し気を紛らわせてくれた。



 それから数時間後、智朗は高座渋谷駅の改札を出た。

 気分転換に一度は藤沢の街へ出てみたものの、盆休みの街は人が溢れていた。疎ましくてならなかった。しばらく歩き、結局どこに立ち寄るでもなく帰りの電車に乗った。

(なにやってんだ)

 時刻は午後五時前。陽が沈むのはまだ先で、夕刻の実感が湧かない奇妙な時間帯だ。

 長後を素通りして高座渋谷まで来た。この町に来る目的はひとつしかない。仇の偵察だ。

 昨日耳にした話の通りなら今日、仇は妻の実家に行くはずだ。もうとっくに出発しているだろう。朝にも来たことだし、仇が戻ってくる明後日までもうここに来るつもりはなかったというのに。

(もっと他にすることあんだろ)

 仇を前にして、自分は怯えずに動けるだろうか――悩みがぶり返してくる。

 決行の日はもう目の前だ。それなのに腰の据わらぬ己に苛立ちながらも、仇の住まう『カーサ・デ・ソル』へと足を動かす。

 街路樹に隠れるように様子を窺うと、もうとっくに出発しているだろうと思っていた仇がまだいた。

 仇がベランダに出て洗濯物を取り込んでいる。ちょくちょく室内を振り返って会話をしている。

 洗濯物を取り込み、これからレンタカーで妻の実家へ向かうのだろう。

「のんびりしやがって」

 やつ当たりめいた悪態が口を衝いて出る。

 出発まで見届ける気力は湧かず、智朗は踵を返した。

 家まで走る気も湧かず、駅まで歩いた。


――――――――――――

 歌が聞こえてきた。


 君を愛しているのさ

 なにも怖くないから

 君が僕のパワー

 僕は君のラヴァー


 高座渋谷駅前ロータリーの片隅で、アンプ内蔵のギターとベースの若者二人が弾き語りをしていた。さっきはいなかったので始めたばかりだろう。

 金髪の長身の男がベースを弾きながら歌い、やや小柄な眼鏡の男が危なっかしくコードを押さえて伴奏していた。

 今では路上でこんなことをする者もなかなかいない。ウルサイの一言とともに刺されかねないからだ。控えめな音量だが、それでも勇気があると智朗は思った。

 生の演奏に胸が高鳴り、智朗はただ一人だけ彼らの前に立ち止まった。

 オリジナルの曲だろうか。メロディーに新味はなく、歌詞はとても聞いていられない。それでも――

(上手だな)

 金髪の歌と演奏に感心する。まだ人前で演奏したことのない智朗には、それも含めて眩しかった。

(アイツだって人前で弾いてみせたってのに)

 明日美の『延々とロンドン・コーリングのイントロライブ』を思いだして、智朗は吹き出した。

「なんかおかしいか?」

 ちょうど演奏が一区切りしたらしく、手を止めた金髪が不機嫌に訊いてきた。

 誤解されたようだ。

「ごめん。思い出し笑い。あんたたちにはカンケーないよ」

 智朗は謝って立ち去りかけた。すると眼鏡のギタリストが「松川?」と声をかけてきた。よく見ると中学の同級生だった。親しかったわけでもない。演奏するほど音楽が好きとは知らなかった。

「ああ、ひさしぶり。じゃーな」

 愛想なく行きかける智朗の肩を金髪が掴んで止める。

「なに? 知ってるのコイツ」

「中学で一緒でした」

「ふーん。じゃ、こいつまだ高校生か」

 眼鏡が答えると、金髪が馬鹿にした物言いで手を離した。

 それが智朗の勘に障った。

「だったらなんだよ」金髪をにらみつける。「高校なんて辞めたし」

「マジかよ松川」眼鏡が素っ頓狂な声を出す。

「おまえ十七か? 十八か?」

「十七」

「だったら見逃してやるよ」

 金髪が智朗の肩を突く。

「おい、十八だったらどうすんだよ?」

「決まってんだろ。ぶっ殺してやる」

「あんな媚び媚びのクソ歌歌ってるクセに、強がってんな」

 金髪が今度は智朗の胸倉を掴む。

 それでも智朗の憎まれ口は止まらない。

「さっきの、もしかしてオリジナル?」

「そうだよ。文句あっか」

「メロディーもベースラインもポールのパクリじゃん。いっそ左で弾けよ。歌詞は馬鹿過ぎて吐きそう」

 金髪の顔がどす赤くなる。智朗を突き飛ばす。

 眼鏡の元同級生があわてて止める。

「透さん、ヤバイですよ。コイツ、ほら、前に話した……」

「なんだよ」

「親殺されたヤツです」

「ああ」金髪はベースを外して足元に置いた。「親子揃って生意気だったんだな」

 言下、智朗の拳が金髪の腹を打っていた。

 金髪は腹を抱えて数歩よろめき、しまいには座りこんだ。

 智朗はベースに手を伸ばす。ネックを掴んで上段に振りかぶる。

 ベースのボディを斧よろしく金髪の頭めがけて振り下ろしかけて、止めた。

 悶絶している金髪のそばにベースを放りだして駅舎へ走った。せかせかと切符を買い、改札をくぐるとホームへ続く階段を駆け上がる。大和方面行きの電車が入ってきた。反対方面だが構わず飛び乗る。

 ドアが閉まる。眼鏡も誰も追いかけてはこなかった。

 そばの手すりを握り締めて息を整える。

 生まれて初めて人を殴った。

 数カ月、一人で走りこんだ。

 ボクシングに空手に剣道。我流で色々な格闘技の真似事をしてきた。

 努力はしたものの本当に自分が強くなっているのか、測りようがなかった。

 しかし――

「やった!……」

 パンチひとつであの金髪に勝ったのだ。

 智朗は歓喜した。

 電車なので声を抑えるのに苦労した。



 家に戻ると、智朗は精霊馬を冷蔵庫から出した。

 迎え火の代わりに皿の上で線香を焚く。

 昨日仇の会話を盗み聞けたことといい、今日の出来事といい。

 父と母が自分の企てに力を貸してくれているような無敵感を覚えた。

「ありがとう」

 手を合わせる。

 思い立ち、カレンダーの今日の日付に早々とバツをした。


 あと三日。

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