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吠えない蝉  作者: 野間義之
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 少し走って明日美(あすみ)は自転車を止めた。

 まだ力が入りきらない足を地につけて、背中で気配を聞く――ひょっとして智朗(ともろう)が追いかけてくるかもしれない。

 しかし、彼は来ない。

「ばかトモロウ」

 不満げに悪態を漏らすが、もしそうなったら自分はどう振る舞うだろう。

 まだ動揺は収まっていない。蝉の声なき油じみた夏の静寂のなか、喉まで心臓になったように大きく動悸している。

 ハンドルに手を添えて、そこに顔を伏せる。


(智朗くんがあんなコトするとか……)

 彼からすれば軽い不意打ち、悪ふざけのつもりだったかもしれない。

 手を出させるほどに自分が隙だらけだったのも確かだ。熱中症のせいでだるさが残っていた。智朗への信頼もあり、睡魔に抵抗しようともしなかった。

(だからって!)

 笑って許すとでも思っていたのだろうか。

 帰国以来取り付く島もなかった智朗との距離が一気に縮まり、達成感と多幸感を覚えていたというのに、台無しだ。


 夢現に、智朗からタオルケットを受け取ったのを覚えている。面倒見よく肩にかけ直してくれる彼らしさがうれしかった。

 安らいだ眠りのなかで、蟻走感を覚えた。足を逃がすが去るどころか内側へ、上へと這い進んでくる。

 そして段差を踏み外したような、短い落下に似た感覚。

 まどろみは掻き消えた。

 肩に手を置かれ、仰向けにされていた。

 目を開く。焦点が合うと智朗がいた。肉欲を湛えた眼から脂がしたたってくるようだ。しかしそれよりも早く智朗の顔が落ちてくる。首元に唇の感触が熱い。髪が汗くさい。男の臭いだ。

 なにか言われている。ゴムがどうとか。

 胸を乱暴にも握られている。つぶされるかと思うほど力がこもっている。

 強引に太腿から潜りこんだ指に下着の中をまさぐられている。

 心の準備もないまま放りこまれた情事が、思い出させる。八か月前の忌まわしい出来事。



 日本に比べればイギリスは物騒だ。危機感薄く街を歩けばすぐに掏摸(すり)やひったくりにやられてしまうし、場所によっては柄の悪い輩が野良犬よろしくたむろしている。

 しかしそこは別段治安の悪い地区でもなかった。

 知人のアパートメントに立ち寄った時のこと――。

 知人の部屋をあとにして通路を歩いていると、同階に住む面倒な男と鉢合わせした。歩いてくる明日美に気付いた男は腕組みして壁にもたれ、気障ったらしく片足を伸ばして狭い通路を塞いだ。厭らしく微笑している。二十歳過ぎの無職。差別主義者で近所でも評判はよくないと知人が言っていた。これまでも幾度かこうして行き合うたびに絡まれていた。

「よう人殺し民族」

 今日も野次を飛ばしてくる。

 アパートメントの通路には他に人影はないが、引き返すのも弱腰をみせるようで癪だ。いつものように無視するか二言三言受け答えをして離れれば済むことだろう。ポケットの上から防犯ブザーの感触を確かめると臆さず男に歩み寄り、目前で止まる。

「どいて」

「おい日本國人! おまえら、俺たちは殺せないんだってな。ビビらせやがって」

 公殺法ができて以来こうしてつっかかっていたくせに、ようやく自分の理解不足に気がついたらしい。それでよく今まで絡んできたものだ。つまり明日美に殺されることなどありえないと、なめていたのだろう。

「あなたが勝手に勘違いしただけでしょ」

 明日美が応えると男は首を傾げて『東洋人の英語など聞き取れない』といった顔をした。それもいつもの反応だ。

 前を塞ぐ足を押しのけようとした明日美の手は、掴まれた。

「日本國人同士で殺し合うなんて大変だな。日本國人は絶滅しちまうんじゃないか?」男の声が卑しく、脂光りする。「そうならないように、おまえも頑張らないといけないんじゃないか?」

 この状況は本当に危険だ。防犯ブザーに手を伸ばすが間に合わない。 

 口を塞がれ、腹を殴られた。殴られたのは初めてで、痛みと恐怖で声が出なくなった。

 そのまま青年の居室に連れ込まれ、床に押し付けられた。

 両足を割られ、ブザーが入ったまま服を剥がれる。

 抵抗する度に拳が、暴力が顔に腹に落ちてくる。

 殺される。

 殺されないためには、鬼畜の欲望が果てるのを待つしかなかった。

 嫌悪も苦痛も(おもて)には出さない。

 間違っても感じているふりなどするものか。卑劣な強姦魔を悦ばせてなどやるものか。

 ただただ、顔を固めて、やり過ごした。



 思い出してしまった。

 今、上にいるのはあの男ではない。智朗だ。けして暴力に訴えるような人間ではない。

(そう? ほんとにそう!?)

 明日美が見抜けていないだけで、智朗も本性はあの男と同じではないのか。

 性行為そのものに忌避感や嫌悪を覚えてはいないつもりだった。智朗となら、心配もしていなかった。

 しかしこんな成り行きはあんまりだった。 

(嫌だ!)

 拒めば智朗も暴力を振うかもしれない。

 それでもあの時は出なかった声が今は出せる。叫んだ。

 智朗は離れてくれた。安堵が一層に体を震えさせる。心の萎縮を体が(なら)う。縮こまり、震え続けた。全身で拒絶した。

 おろおろと謝り続ける智朗に、怒りがこみ上げる。

 なんだってこんな真似をしたのか。自然な流れで求めてくれればこんなことにはならなかったかもしれないのに。ようやく以前に近い距離感を取り戻しかけただけに残念でならなかった。



「ばかトモロウ!」

 顔を上げた明日美は涙を拭い、自転車を漕ぎだした。

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