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吠えない蝉  作者: 野間義之
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 うなじに当たる風が少し肌寒い。

 引き上げたタオルケットの重さと感触がいつもと違う。匂いも。

 違和感が明日美(あすみ)の目を覚まさせる。

 瞼を緩めると自分のベッドではなかった。ソファだ。それもよその家の。しかしどこか知っている。ここは智朗(ともろう)の家のリビングだ。

 体を起こして視線をめぐらすが誰の姿も見えない。

 庭に面した掃き出し窓からレースのカーテン越しに夏の日差しがにじんでいる。

 雨戸を開けてくれた、ただそれだけのことがたまらなく嬉しい。

 クーラーと扇風機の風が明日美に向けられている。

「えーっと……」

 こうなった経緯(いきさつ)を思い出す。

(具合悪くなったんだ……)



 智朗が姿を見せるまで、と思いつきで庭の草むしりを始めた。

 ウッドデッキの下から拝借した(ざる)に雑草を放りこみ、溜まると庭の隅に集めて積んでいく。それを目安にペットボトルのお茶で水分補給する。

 一応熱中症を用心してはいた。しかしなったことがないので危機感は薄かった。まだ朝の涼しさも残っていて油断していたのも確かだ。

 草を抜いていても、繰り返し繰り返し耳の奥で甦る言葉がある。

『第一希望は刑務所、第二希望は火葬場』

 智朗は良くないことを、凶悪で危険なことをするつもりだ。

 自分はどうすればいいのか――わからない。

 単純作業につられてか堂々巡りの思考は溶けかけて、半ば無心に草をむしっていた。うなじが灼けるのも気に留めず黙々と手を動かし続ける。

 体調の変化に気づいたのは雑草が膝より高く積み上がった頃だった。頬が火照り汗が止まらない。額を手の甲で拭うと脂汗が指先まで伝い落ちた。まずいかもと思った時にはもう遅かった。

 脈打つような脳の圧迫感に頭がしびれて疼く。ふやけたように手足の感覚がどんどん頼りなくなっていく。

「きもちわる……」

 よろよろと隅の木陰に座りこむと一気に辛くなってきた。

(熱中症? やっちゃった?)

 とにかく少しでも涼しい場所で体を冷やさなければ。しかし風はない。ペットボトルのお茶はもうだいぶ減っていた。その残りを一気に飲んでしまう。

(どうしよう)

 どこか涼める所は、冷たい物は――思い出すのも考えるのも辛く億劫だ。

 のんきに構えていたせいで携帯電話やスマートフォンもまだ手元にない。

 この近所の誰かに助けを求めることも考えた。しかしおかしな噂が立って智朗の立場や評判が悪くなってしまうかもしれない。先日騒がせてしまったので尚更気を遣ってしまう。

 躊躇している間にいよいよ体調は悪化する。座っているのも難しくなってきた。土の冷たさが手を伝い誘ってくる。このまま横になれば気持ちいいだろう。もういいや。

 弱りきったところで声がした。

「おい」

 智朗だ。予想外のジャージ姿。汗だくで額や頬に髪が貼りついている。彼らしくない恰好でどこでなにをしていたのか気になったが――

「なにしてんの」「なんで」「おい!」「熱中症だろ!」

 むこうからやいのやいのと詰問された果てに突然抱きかかえられた。非力な智朗のお姫様だっこは恐かった記憶があったが――

「オレの首持って」

 促されて両手を回した智朗の汗ばんだ首は昔よりも逞しかった。背中と膝裏に感じる腕にも、智朗の足取りにも以前のような必死さがない。

 明日美は安心して目を閉じた。



 壁の時計を見ると、お昼を回っていた。けっこうな時間を眠っていたことになる。

 頭は少し重いが、智朗のおかげで楽になっていた。

 喉が渇いていた。ソファの足元に温くなった水とポカリスウェットのペットボトルが並んでいる。智朗から受け取ったことを思い出し、遠慮なく残りを飲みきる。

 手が土で汚れたままだ。リビングとひとつながりのダイニングで手を洗い、その手でひと口ふた口と水を(すく)い飲んでようやくひと心地ついた。

 改めて室内を見渡す。ソファもテレビもローテーブルも棚も二年前の記憶と大差ない。

 だがテーブルには薄く埃が積もっている。部屋の隅には綿埃が見える。床も灰白色に霞んでいて、智朗が日常的に歩いている部分だけがきれいで、まるで獣道だ。シンクには汚れ物が溜まっている。

 さきほど朦朧としながらも「汚い」と智朗を叱ったことを思い出す。彼はズボラでもだらしなくもないが、十代男子の家事が行き届かないのは仕方のないことだろうか。

 落ちつくとトイレに行きたくなってきた。勝手知ったる智朗の家ではあるが、この状況で我がもの顔に歩き回るのは躊躇われた。とはいえ生理現象には勝てない。

 リビングを出てトイレにむかう。薄暗い廊下も端には埃がたまっている。トイレもさぞ汚れているだろうと覚悟したがそれは杞憂だった。意外にも清潔だ。

 ついさっき掃除したのだろう。洗剤の臭いが真新しく残っている。明日美のためにきれいにしてくれたのだとわかる。

 トイレを出てすぐに階段が目に入った。智朗は二階の自室にいるのだろうか。

(なら出てくるよね)

 ドアの開け閉めの音で明日美が起きたことに気づきそうなものだ。

 ひとまずリビングに戻ろうとして明日美は智朗の話を思い出した。

「おばさん」

 階段に向かって手を合わせた。ここで智朗の母は首を吊って死んだ。

 黙祷を終えて目を開けるのが恐くなった。後ろに智朗の母が立っているような気がした。

 もちろん振り向いても誰もいなかったが、自分がひどく薄情で人でなしに思えてくる。

「智朗くん!」

 二階に向かって呼びかけてみるがなんの返事もない。しかたなくリビングに戻ると、レースの向こうで人影が動くのが見えた。庭に誰かいる。

 カーテンの隙間から覗くと誰かが一人しゃがみこんで草むしりをしている。頭にタオルを被っていて顔は見えないが伸びた髪からして間違いない。

 明日美が窓を開ける音にタオルが振り返った。やはり智朗だった。Tシャツとハーフパンツに着替えている。仏頂面をタオルで拭って立ち上がると、その場から声を投げてくる。

「大丈夫か?」

「うん。ありがとう」

「病院、行かなくていい?」

「平気平気」

 言葉の真偽を確かめるように明日美の顔を凝視した後、智朗は草むしりを再開して背中で言う。

「草、ありがとな。もういいから帰れ」

 怪我の功名めいていたが家に上げてもらえたことだし、智朗の態度も少しは軟化したかと淡い期待を抱いていたが――

(まだそういう芸風かっ)

 カチンとくる。へこたれるものか。そばのサンダルを拝借して庭に降りる。

 傍らまで来ても目もくれない智朗に声をかける。

「なにやってんの」

「草むしり」

 我が意を得たり。

「熱中症になるよ」

 明日美のタイムリーなボケに智朗はあっさり吹き出した。

「説得力ありすぎっ」

 うずくまったまま腹を抱えて笑う智朗。

 ここまで笑われると複雑だが仏頂面よりはずっといい。

「笑いすぎ」

 親しくはたかれた智朗はやっと明日美を見た。慎むように笑みを殺すと、さも重要そうに訊いた。

「なぁ、痩せた?」

「うん、少しだけど」

 イギリスでのあの事件のあとしばらく体調を崩して体重が減ったままになっていた。

「そっか」

 心なしか不満そうな智朗。

「なに?」

「べつに。なんでも」

 目を逸らして口ごもる智朗。明日美はおどけて会話を継ごうとする。

「なぁんでカノジョが痩せて不機嫌になるかなぁ」

「はっ?」

「ひょっとしてデブ好き?」

「ちょっ、ちょっとまって……」智朗は顔を赤らめる。相変わらずこの手の話題は弱いようだ。「だからべつに太ってないって前から言ってんじゃんか。だいたいダイエットにしたってやり過ぎだろ」

「えっ? なに?」

「ちゃんと食べろよ」

「えーっと、意味わかんない」

 智朗が家に戻っていくので明日美もついていく。

 智朗はダイニングへ入ると冷蔵庫から紙バックを取り出した。それは明日美が持参したものだった。玄関の日蔭に置いていたのをしまっていてくれたらしい。

「これ」

「うん?」

「ちゃんとしたの食えよ」

 まだ意味が分からない明日美に焦れた智朗はバックから大きなタッパーを取り出す。中身はキュウリが数本だ。

「弁当コレとかやり過ぎだろ」

 真顔で叱ってくる智朗に明日美は吹きだした。

「ちがう! キュウリが弁当って!」

「ちがうのか?」

「カッパか!」

 漫才よろしく手の甲で智朗の胸をはたくと、智朗は「えっ、えっ」とうろたえる。

 智朗の突飛な勘違いがつぼに入ってしまい今度は明日美の笑いが止まらなくなった。

「なんだよ」

 むっとなる智朗をよそに明日美はしばらく笑い続けた。

(智朗くんは変わらない)

 このどこかズレた発想や思いこみがいかにも彼らしい。

 ようやく収まって目尻の涙を拭う明日美に智朗が訊く。

「なんでキュウリなんか持ち歩いてるんだよ」

「馬」

「馬?」

「今日は何日?」

「……十三日」

「イエス! お盆初日!」

「ん」

「ご先祖様迎えなきゃでしょ」

 まだピンとこない様子の智朗に明日美は手を差し出す。

「割り箸かつまようじちょうだい」


 数分後――

「あー」

 これかと智朗はようやく合点がいった。

 キュウリにつまようじを刺して馬に見立てた精霊馬(しょうりょううま)だ。

 明日美は二頭の精霊馬を盆に並べる。

「うちはお仏壇に供えるけど、智朗くんちはどうしてる?」

「うちはやったことない」

「うそ」

「やってるとこの方が少ないんじゃね?」

「そっかなー。ま、いいや。じゃーお仏壇は?」

「ない」

「なんで?」

「父さんが殺されたとき、小さいの買ったんだけど、母さんがおかしくなって壊しちゃったんだよ」

 あまりのことをあっさりと口にする智朗に、明日美は上手く応えられない。

「母さんが死んだときにもう一度買うって話が出たんだけど、オレいらないって言ったから」

「なんで……」

「そんなのあっても重たいからさ。面倒みきれないし」

 仏壇をペットかなにかのように語る智朗。元から淡泊なところもあったがここまでではなかった。二年あれば人は変わるだろう。しかし智朗の変わりようは一般的なそれとは異なっている。智朗が味わったことを思えば無理なからぬことなのだろうか。

「それって……それでいいの?」

「よくないかもな。位牌っていうのは伯父さん()に置いてある」

 親不孝という言葉が明日美の心に浮かんだ。これ以上問えば責める言葉になりそうだ。

「ここでいいよ」

 智朗はローテーブルに精霊馬を置いた。

 脚のバランスが気になるのかつまようじを微調整しては少し離れてチェックする。

(こまかっ……)

 明日美は苦笑する。こういう一面は相変わらずで微笑ましく思えた。

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