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吠えない蝉  作者: 野間義之
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 三年前の出来事を思い出した拍子に、智朗はふと考える。

 仔猫のために寒空の下で何時間も待つような明日美のことだ――

(ひょっとして今も……)

 胸がざわめく。(かぶり)を振る。

「そこまでバカじゃないか」

 明日美が早々に諦めてくれることを祈りながら、なんとか眠ろうと目を閉じる。



 いつの間にか眠っていた。

 窓側の半身が焼けて熱い。移った日差しを浴びていた。

 そばでシェードを下げようとしてくれている店員の物音と気配で目が覚めた。

「申し訳ございません」

 母親と同年代の女性店員に若干怯え気味に謝られた。

 なんの文句があるものか。こんなことで殺したりするもんか。

「いえ、ありがとうございます」

 起きぬけで少し不機嫌そうな声が出たが、女性は安心した顔で去っていった。

 二時間ほど眠っていた。コーラは氷が解けきって色も味も薄く、ぬるくなっていた。それを飲みこんで立ち上がると座って寝ていたせいで体がきしんだ。 

(帰っても平気かな)

 もういないだろうという常識的な予想と、まだ待っていてくれたらという身勝手と。

 つられるように忘れていた心配が首をもたげてくる。

「まさかね」

 ひとりごちつつファミレスを出た智朗は真っ先に手近のコンビニで水とアクエリアスを1リットルずつ買った。何事もなければ自分で飲めばいいだけだ。

 帰路。歩調が、急ぎ足、駆け足へと焦っていく。

 太陽が中天に届くまでまだまだあるというのに、すでに暑い。走っていればなおさらだ。

 家が近付く。自転車はまだある。しかし玄関に明日美の姿はない。

 庭に目を向けると、いた。隅の木陰に座りこんでいる。足元に抜かれた雑草が散らばっている。様子がおかしい。デニムが汚れるだろうに地べたに座り込み、うなだれている。

「おい」

 近づくと彼女は顔を上げる。汗だくで前髪が額に貼りついている。

「あー……おかえり」

 薄い明日美の笑顔に胸が痛む。

「なにしてんの」

「草むしり」

「なんで」

「なんでって言われても……草ぼーぼーだから」

 受け応えしているものの声音から体調の悪さがはっきりとわかる。目の焦点も怪しい。立とうとする明日美は、しかし膝を伸ばしきる前にまたへたりこむ。

「おい!」

「大丈夫、ちょっと貧血」

「熱中症だろ!」

「そうかなぁ」

 明日美に手を貸そうとするが、力が入らないようだ。

 背負うかと明日美に背中を向けかけて智朗は思いなおした。彼女の背中と膝うらに腕を回して抱え上げる。

 不意のお姫様だっこに明日美は短く悲鳴をあげる。

「ほらオレの首持って。あぶないから」

 頼むと明日美は素直に智朗のうなじに両手を回して、それきり目を閉じて黙った。やはり辛そうだ。

 仕方がない。智朗は観念して明日美を家に抱え入れる。

 リビングのソファに置かれた取り込みっぱなしの洗濯物を蹴り落として明日美を横にする。

 室内をざっと見た明日美がつぶやく。

「きったな……」

「うるさい」

「ちょっとくさいし……」

「ごめん……」

 クーラーを入れ、扇風機を明日美に当てる。

「大丈夫か?」

 最悪の場合は救急車をと考えていたが明日美は目を薄らと開けて「いい、大丈夫。ちょっとだけ休ませて、疲れた」と応えた。

「だから、熱中症だって……」

 大丈夫そうだと判断すると、智朗は買った水をコップに注いで差し出す。明日美は続けて二杯飲んでまた横になる。

 アクエリアスをペットボトルごと明日美に渡すと冷凍庫を探る。たしか冷却パットがあったはずだ。風邪をひいたときに母がいつも額に当ててくれていたことを思い出す。鼻の奥が切なくなる。

 アイスパックを二つ、タオルにくるんで明日美に渡す。

「デコとか脇に当てると楽になるって」

「脇とかやらしぃ」

「あのさぁ、いまさら……」

 言いかけて智朗は黙る。

「やらしぃ」

 明日美は冗談めかして繰り返して仰向けになる。ひとつを額に乗せ、ひとつを脇にはさんだ。

「ちょっと寝てろよ」

「うん、ごめん」

「いいから」

 冷えすぎないようにエアコンと扇風機を調整しているうちに、明日美は眠ってしまった。寝息が聞こえる。

 智朗はためいきをつく。肩がしぼむ。

(いまのうちに)

 起こさないよう静かに周りを片づけ始める。

 たまに叔父らが様子を見にくるのであまり散らかさないようにはしているが、それでも十代男子の家事だ。程は知れている。

 放ったままの弁当や菓子の空を集めて捨てる。

 手を動かしながら見られて困るものがないか点検する。

「あっ」

 あった。壁の仇の写真だ。決行の日に合わせて気勢を高めるためにカレンダーの隣に貼っている。さっきは朦朧としていたので明日美は気づかなかっただろう。何十回と千枚通しで刺した写真を外す。一度、二度、三度、四度、五度、さらに細かくしつこく破り、握り固めてゴミ箱に叩き投げ捨てる。

 今度はさっき床にどかした洗濯物を雑にたたむ。

(なんで洗濯物たたむときって正座しちゃうんだろ)

 気づいておかしくなった。明日美に訊いたらなんて応えるだろう。 

(起きたらトイレぐらいは使うだろうな……きれいにしなきゃ)

 母が死んで以来、限られた事以外には無関心無頓着になっていただけにトイレの掃除など面倒ではあったが、かすかに浮き足だってしまう。

 家に誰かの呼吸がある。

 頬がこそばゆい。

 たたみ終え、歪に積み上がった洗濯物を上から押して安定させる。

 一息ついて、手の平を見る。グー、パー。グー、パー。指を動かす。右腕をL字に曲げる。二の腕に触れると固く盛り上がっているのがわかる。

 久しぶりに、試しに明日美を抱え上げてみて、実感した。

「力、ついた」

 以前はかなりしんどかった。「必死過ぎでかっこよくない」と明日美にダメを出されたものだ。しかしさっきは格段に楽だった。トレーニングの成果だろう。達成感にニヤリと口角が上がる。

 しかし眠っている明日美の姿を見て気づく。

「痩せたから?」

 ボーダー柄のブラウスと膝丈のガウチョから伸びる女子の四肢は智朗の思い出よりも細く見える。

 触れたい欲を飲みこむのに苦しむ。

 自分の筋力が増したのか、明日美は軽くなったのか、その両方なのか、わからない。

 舌を打つと明日美に背を向け、両手をみつめ、動かす。


 グー、パー。グー、パー。グー、パー。

 グー、パー。グー、パー。グー、パー。


 親指と人差し指、指先をつける。次は親指と中指をつける。親指と薬指、親指と小指をつける。

 親指と中指をつける。親指と人差し指をつける。親指と薬指、親指と小指をつける。

 親指と薬指をつける。親指と人差し指をつける。親指と中指、親指と小指をつける。

 親指と小指をつける。親指と人差し指をつける。親指と中指、親指と小指をつける。 


 指たちが規則正しく早く動くにつれて、智朗の表情はどんどん虚ろになっていった。

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