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吠えない蝉  作者: 野間義之
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 三年前、中学三年の十一月。いよいよ高校受験を壁のように感じ始めた頃のこと。明日美の家にほど近いポンプ小屋に仔猫が捨てられていた。

 学校帰り、通りがかりに鳴き声に気づいたのは明日美だった。

 ポンプ小屋に入ると、まず目についたのは空のダンボール箱。なかでひっくり返った皿からミルクや離乳食のような餌がこぼれている。

 どこかから、か細く小さく猫の声がする。

 小屋は近所の農家の物置きにもなっていて農機具や肥料が雑然と置かれている。仔猫が一匹、ダンボールと肥料袋の隙間の奥深くに潜りこんでいた。黒猫のようだ。暗がりで眼の輝きだけが目立つ。

「おいでおいで」

 明日美は屈んで隙間に呼びかけるが拒むように鳴くばかりで出てくる気配はない。

「こわがってるんじゃね? そっとしとこうよ」

「でも」

「どうすんの。飼うの?」

「飼えないけど……」

 両親がそれぞれ犬と猫のアレルギー持ちなので明日美はペットを飼ったことがないらしい。その反動で犬や猫を見かけると強く反応する。

 そんな明日美の様子が逆に智朗を冷静にさせていた。捨てられた動物を可哀想に思うのは智朗も同じだが、だからといって目につく限り深情けをかけていては(きり)がない。

 智朗はコンビニでミルクと幼猫用のキャットフードを買ってくると、捨て主が置いていった皿に入れる。

「様子みよう。な?」

 どうにか明日美を納得させてポンプ小屋を後にした。



 あくる日。様子を見にいくとミルクや餌は減っていた。しかし仔猫は依然として奥に隠れていて、呼んでも出てこない。

 いなくなってくれればいい、誰かに拾われていればいいと願っていた智朗は、「大丈夫っぽいな」と声に内心を滲ませないように気をつける。

 それから二人は毎日ポンプ小屋に足を運んだ。

 猫は誰もいない隙をみて餌を食べ、小屋の隅に排泄していた。下は土を突き固めただけなので後始末はスコップと少しの水で済んだ。臭いだけは割り切って無視するしかなかったが。

 四日目、仔猫は警戒しつつも少しずつ近づいてくるようになった。隙間から出てはこないが、明日美が手を伸ばしても奥に逃げ戻りはしない。

「ちょっとさわれた!」明日美は無邪気に喜ぶ。「智朗くんも」

「や、いいよ」

 智朗もペットを飼ったことがなく、飼いたいと思ったこともない。だから少しおっかない。明日美の肩越しに覗き見るだけで充分だった。

 それでもじょじょに情が湧くもので、このまま野良にするのは忍びなくなってきた。

 明日美の家が無理なら、うちで飼えないだろうか。触れる勇気もないくせにそんなことを考える。両親に世話を頼まなくてはならないときもあるだろう。猫は爪とぎや粗相で家を痛めるというイメージもある。迷惑もかけるだろう。もし飼えないなら、里親を探すというのはどうだろうか。でもなかには虐待目的で引き取るような人間もいると聞くし。

 一人で先回りして気を揉んでいると、受験勉強にも身が入らない。

 いつまでもこんな状況が続いていいわけがない。早くなんとか落着させないと。

 真剣に、前向きに思案し始めた矢先のことだった。

「あれ、血?」

 明日美が心配気に指差したのは、見るからにゆるい排泄物だった。赤茶けていて血が混じっているようだ。

「具合わるいの? おいでおいで」

 明日美が呼んでも出てこない。応える声も弱々しい。

 智朗も動揺しかける。しかし、安堵に似た感情もあった。これで猫が死ねば――二人が持て余している問題に終わりが見えた気がした。

 どれだけ呼んでも猫は近づいてくる素振りもない。そこまで弱っているのだろうか。

 猫が恐がるから、と今までどかそうとはしなかった肥料袋に明日美が手を伸ばす。それを智朗は止めた。

「どうしよう」明日美は泣きそうだ。「どうしよう……」

「どうしょうもないだろ」このままにしておくしか、を呑みこむ。「様子見るしか……」

「病気だよ」

「でも、できるコト、ないだろ」

 温かくない言葉。わかっている。

 口にした智朗も聞いた明日美もわかっている。 

「そうだね……」

 彼女は気がかりそうに、それでも立ち上がった。

 


 智朗は悶々とその晩を過ごした。

 問題集は、開いているだけ。ひと文字も頭には入ってこない。

 仔猫の容体が気にかかるし、いつもならちょくちょく届く明日美からのメールがないので落ちつかない。

 智朗も今夜はどんな言葉を送ればいいのかわからない。何度もメッセージを打っては消し、打っては消し打っては消しして、

「ああもう!」

 智朗はとうとう家を飛び出した。



 厚手のスキージャケットを羽織り、手には二枚重ねの軍手。これなら仔猫に噛まれようがひっかかれようが大丈夫なはずだ。力づくでも猫を捕まえてやる――勢いまかせに自転車を漕ぐ。

 ポンプ小屋が近付く。自転車を飛び下りるとポケットから懐中電灯を取り出す。その光がもう一台の見覚えある自転車を照らす。

「明日美!」

 小屋の外、扉の傍らに背中を預けて明日美が座りこんでいる。呆けた顔でこっちを見上げる。

「なにしてっ……」

 明日美が「しっ」と指を唇にあてる。

「出てこない?」

 小声で訊ねると明日美は頷く。

「ていうかいつからいるんだよ!?」

 訊くと「うーん……」とはぐらかす。

「出てきてくれないから……」

「見張ってどうすんだよ」

「ご飯食べるの見れたら安心できるかなって」

「だったらもう肥料とかどかしてさ……」

「そうしようかなって思ったけど、逃げちゃったら大変だし」

「だったら呼べよ、手伝うのに!」

「でも智朗くん、猫嫌いっぽいから」

「嫌いじゃない、ご縁がなかったから触り方とかわからないだけで」

 歯切れ悪く言い訳する。いつもの明日美なら笑うところだが、今はつらそうに眉間を皺を寄せている。

 智朗は明日美の瞳の焦点が怪しいことに気づく。具合が悪いのか。

「どれぐらい待ってる?」

「二、三時間くらい?」

 ばかか、という言葉を呑み込む。

「風邪ひくだろ!」

 外は息が白くなるほどに冷えている。

「智朗くんだって」

「オレはいいんだよっ」

 明日美の額に手を当てるが、軍手をしたままでは分らない。外すのももどかしくて額を付ける。彼女の額は熱かった。寒風のなか自転車を飛ばしてきた智朗が冷えきっているせいか。いや、だとしても熱かった。

「熱あるし!」

「大丈夫」

「大丈夫じゃない。帰ろう」

 肘を掴んで立たせようとするが、明日美は腰を上げない。

 智朗は腹をくくる。懐中電灯を手にポンプ小屋に入ると、仔猫がいる隙間に手を突っ込む。届かない。腹這いになり、さらに奥まで手伸ばす。肩まで突っ込み、やっと捕まえた。仔猫は暴れたが強引に引っ張り出す。智朗は仔猫の後ろ脚を掴んでいた。

 ぎぃ、と刺々しく鳴く黒い仔猫をタオルにくるむ。

「雑っ!」

 抗議する明日美を立ち上がらせる。

「これでいいだろ。家に帰れ!」

「その仔は!?」

「病院に連れてくからッ! いいから帰れ!」

 明日美を強引に家に帰すと、当然閉っていた動物病院のドアを叩き、無理を言って仔猫を診てもらった。

「下血は消化器系を虫にやられているせいだね」と獣医は診断を下した。栄養状態もあまりよくないと言われたのには胸が痛んだ。

 薬と虫下しと幼猫用の餌をもらい、仔猫を家に連れ帰った。

 夜中に家を飛び出したかと思えば病気の野良猫を拾ってきた智朗を両親は咎めるでもなく、空き箱と毛布でベッドを作ってくれた。親子三人で代わる代わる様子を見て、温かくして、苦労して薬を飲ませた。

 保護して三日目。当初はぐったりしていた仔猫が、箱から脱出を試みるくらいには動くようになった。

「元気になってよかったねー!」

 真っ先に懐かれた母が膝に乗せた仔猫を撫でる。

 このまま元気になってくれるだろう。情は溢れるほど湧いている。松川家でこのまま飼うことは確定したような空気になっていた。

 だったらそろそろ名前をと思っていた四日目の朝、仔猫は箱を抜け出し、カーテンの裾に隠れるようにして死んでいた。

 獣医からは、小さな仔にはよくあることだと慰められた。



 智朗は仔猫の遺骸を獣医に紹介してもらったペット霊園へ持ち込み、火葬してもらった。灰は霊園が所有する山の土地に撒かれるという。

 ペット霊園は寺の副業らしく、火葬前に住職がわざわざお経をあげてくれた。

「骨をひと(かけ)でも持ち帰られますか?」

 住職に訊かれて「どうしてです?」と訊き返した。もらった骨をどうしろというのか。

「少しだけでも連れ帰ってご自宅の庭にお埋めになったり、思い出に持っておきたいと仰る方も多いですよ」

「いえ、いりません」

 薄情なガキと思われただろうか。でもそんなことはどうでもいい。


 あの晩からずっと風邪で伏せっていた明日美には、体調が戻った頃合いを見て告げた。

 もっとなにか出来たのではないか。そうすれば死なずに済んだのではないか――そんな風に、やっぱり明日美は泣いた。

 これで庭に墓などあったら、目につく度に明日美が曇ってしまうだろう。自分の判断は間違っていなかったと智朗は思った。

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