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吠えない蝉  作者: 野間義之
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 松川家の玄関先に座り込んで約三十分。中からなんの音も聞こえてこない。

 明日美(あすみ)智朗(ともろう)の部屋を見上げた。

「まだ寝てるのかな?」

 窓は雨戸に覆われていて中の様子はまるでわからない。

「夜遊びしてまだ帰ってないとか」思いつきを口にして、すぐに半笑いで首を振る。「ないない、それはない」

 智朗の素行に不良めいたところは皆無だ。夜遊びどころか煙草さえ吸わない。周りに合わせて吸ったこともあるがその場限りだった。

「あんなの5、6個買う金でCD買えるじゃん」

 智朗のお金の基準はCDだ。「智朗くんの通貨単位は1CDだもんね」と何度からかったことか。

 十代の男子なら服や髪にお金を費やしそうなものだが、彼女持ちの余裕からか過剰に色気づいた風でもなかった。生活態度だけならむしろ健全だった。だから余計に今智朗がどうしているのかが心配になる。反抗期の息子を案じる母親の気分に近いのかもしれない。

 とにかく智朗と話さなくてはなにも始まらない。

 智朗が家にいる可能性が高いのは夜なのだろうが、明日美は夜に外出させてもらえない。友人の家にお泊りに行くなどと嘘をつくことも考えたが親しい友人のほとんどが疎開してしまっている。抜け出せなくもないだろうがそれは最後の手段だ。

 夜が無理ならばと朝にやってきたものの、呼び鈴を押しても反応なしだ。またギターを鳴らせば無視できないかもしれない。しかし朝早い時刻の近所迷惑を考えると躊躇われる。

 一人で暮らしているなら買い物など最低限の外出はするはずだ。今日も天気はよさそうだから洗濯物を干しに出てくるかもしれない。

 気長に待っていればそのうち必ず会えるだろう。


 それにしてもパソコンはもちろん携帯電話・スマートフォンが普及している現代でこの不便なすれ違いはなんなのだろう。

「ショーワかっ」

 一人つっこむ平成生まれの明日美。

 数年前に母と観ていた連続ドラマの再放送を思い出す。第二次世界大戦中の日本國、空襲の最中、橋の上で出逢った男女。互いの名も素生も知らぬまま一年後の再会を誓ったものの、すれ違いと間が悪い再会を延々と繰り返して愛憎を深めていくというストーリー。

 一般家庭の電話さえ普及する以前のことなので致し方ないとはわかっていてもすれ違い続ける二人を母と一緒にじれったく観ていた。

「今じゃこんなことありえないけどね」

「メールしたらおしまいだもんね」

 そんな男と女も最後にようやく結ばれた。ハッピーエンド。

 携帯電話の普及直前に交際していた父と母も待ち合わせですれ違いが度々あったと聞いている。

 そうだ。恋に苦労や障害は付き物なのだ――明日美は前向きに自分に言い聞かせる。

 ふと、庭に目がいく。智朗の母親が丹精こめていた庭。智朗も父親も自慢に思っていただろう。今は雑草が生い茂っている。

 よし、と明日美は気合いを腰にこめて立ち上がった。



 その頃、智朗は駅からしばらく走ったところにあるファミレスにいた。

 軽く食べて、あとはドリンクバーで粘るつもりだ。

(そのうち帰るだろう)

 快晴な空模様だ。この調子ならすぐに猛暑日になる。玄関先でじっと待ち続けるのは厳しいだろう。

「おせっかいなんだよ」

 モーニングセットをたいらげてしまうとすることがなくなった。時間を潰すものがなにもない。退屈しのぎに店内を見渡すと盆休みだからかもう結構な客入りだ。一人客は皆スマートフォンか携帯電話をいじっている。

(ネットなんて)

 智朗は軽蔑する。

 公殺法が始まって以来、日本國国内のインターネットは政府によって監視され操作されている。

 まず公殺法に対しての反対や批判の記事や投稿が削除され始めた。それに気づいた者たちが声を上げると公殺法肯定派を称する者たちがさらに声を上げる。論争の最中に反対や批判の声はじょじょに制限されていき、傍目には肯定派が論破した恰好で収束していく。巧妙に火消しと公殺法の喧伝が行われるうちに人々は公殺法に反対する自分を疑い始める。

 こうして公殺法は日本國国民の心を蚕食していった。

 いつの間にか誰もが表向きは公殺法に従っている。面従腹背と強がりうそぶくには皆が素直に従い過ぎている。

 これが日本國国民かと若い智朗さえ世間を斜めに見るようになるのも無理なからぬ話だ。

「滅んじまえこんなクソな国」

 テーブルに伏せて不貞寝しようとする。しかし低いテーブルのせいで姿勢が辛い、眠気よりも寝心地の悪さのほうが勝る。長椅子に横になれば眠れるが、さすがにそれは見苦しくて智朗なりの美意識や常識が待ったをかける。今のご時世ではマナー違反も減った。そんな状況で未成年を笠に着て振る舞っていると見られるのも(しゃく)だ。

 背もたれに寄りかかって目を閉じるが、明日美のせいでなかなか眠りに入ることができない。

 来るたびに門扉裏に花を供えてくれる。その義理硬さが明日美らしい。

 智朗は思い出す。

(だから庭に墓は作らなかったんだ)

 両親のではなく、猫の墓だ。

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