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吠えない蝉  作者: 野間義之
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40  第十一章 八月十三日

 八月十三日 


 朝の七時前。

 智朗(ともろう)はいつものようにカーサ・デ・ソルのそばまで走ってきた。ジャージの袖で汗を拭い、休憩を装って木の陰から仇のアパートを窺う。

 昨日見たワゴン車が敷地に停まっている。盗み聞いた話では今日から明後日まで仇は妻の実家で過ごすはずだ。妻の実家が千葉だということは、情報提供会社から買った資料にも記載されていたので嘘を言ったのではないようだ。

 二人が出かけるまで粘るか迷ったが、仇の部屋はまだカーテンが閉まっている。いつ起きて出発するかわからない仇を待つには、時間をつぶす場所がない。

 仇の部屋が見える場所にファミレスでもあればいいが、住宅密集地にあるのはコンビニだけ。そこもやたら入り浸って顔を覚えられるのはよくないので利用は最低限にしている。

(まぁいいか)

 智朗は諦めた。出発を見届けるのはそれほど重要じゃない。三日後の十六日までに仇と妻が戻ってくればいいのだから。

 踵を返して大和市の方向へ走り出す。大きく遠回りをして家へと帰るコース。家と仇の住処をただ最短距離で走るだけに体が慣れてしまっていた。物足りないなどとは思わない。運動嫌いなので走らずにすむならそうしたい。偵察を兼ねたジョギングや筋トレに達成感や充実感を覚えたこともない。止めていいなら即止める。

 しかし(かたき)との体力差を少しでも埋めるには、やるしかない。

 もちろんたかだか数カ月の素人努力で元自衛隊員、屈強な仇に真っ向から挑んで勝てるようになるとは思っていない。だから策を、作戦を準備している。

 それでもより確実に仇を殺すために、出来る努力はすべてやっておくつもりだった。おかげでだいぶ体力や筋力はついたと思う。

 しかしここにきて、智朗には大きな気がかりがあった。

 心の問題だ。恐怖心の克服だ。

 初めて横須賀の仇のアパートを訪れたとき、殺意に駆られたものの階段を上がっているうちに怖気づいて体が動かなくなった。

 覚悟と体力的な自信のなさが原因だと決めつけていた。

 あのときは衝動的に湧いた殺意に心身がついてこなかった。

 今は明確に仇への殺意を抱き続けている。体力もつけたつもりだった。

 しかし昨日思いがけず仇と接近したときも体の強張りは相当なものだった。

 格闘技どころか体育以外で特に運動をしたこともない。ケンカもちょっとした弾みで小学二年の頃に同級生と取っ組み合いになったことがあるくらいだ。勝ったか負けたかも曖昧だ。

(いっぺんは練習しといたほうがいいよな)

 とはいえナイフで人を刺す練習などどうすればいい。せめて誰か練習相手になってくれたら――共犯者がいない。友達もいない。相談相手といえば、一人しか思いつかない。しかし明日美にそんなことを話せるわけがない。

 泣きたくなったが、今更どうしようもない。

 走りながら、明々後日までになんとかならないものかと思案に暮れた。



 ――――――――――――



 カーテンを開くと、早くも熱を帯びた日差しが顔に当たる。今日も暑そうだなと靖男は少しうんざりした。

 高校生だろうか、ジャージ姿の誰かが走っていく。髪が長いので女子かと思ったが体格からして男のようだ。

 どんなスポーツをやっているのかわからないが少し心配になった。

(熱心だなぁ。でも熱中症とか大丈夫か?)

「おはよう。今日も暑くなりそうだねぇ」

 先に起きていた杏子が台所から顔をのぞかせる。朝食と弁当の支度をしているようだ。

「起こしてくれてよかったのに」

「今日は大変だから、しっかり寝とかないと」

 今日は彼女の実家へ向かう。借り物の車を運転する靖男を気遣ってのことだろう。しかし自衛隊で各種の特殊車輛を扱っていた靖男にしてみれば全く問題などない。

「余裕だよ余裕」

 笑ってみせると杏子がびしっと指さしてきた。

「その顔でね!」

「なに?」

「今日はアキくんたちも来るんだから」

 アキくんとは杏子の姉の子、つまり甥っこだ。

「だから?」

「ヤスさん、けっこう子供ビビらせるからなー」

 杏子がからかう。

 靖男は親戚の幼児受けがあまりよくない。顔を見ただけで泣いた子もいた。

「俺なんかましな方だと思うけどな……」

 小声でぼやく靖男。自衛隊時代は酒席で「この優男(やさおとこ)が」などと言われていたが、それはあくまでも比較の問題だったらしい。

「昨日だって若い子がビビってたよ」

「誰?」

「昨日買い物行く前にそこのコンビニに寄ったでしょ」

「ああ」

「そのときね、ヤスさん見て若い子がギョッとしてた」

「若い子?」

「私、車から見てたの。高校生じゃないかな、未満章はしてなかったけど男の子。立ち読みしてたのにお店に入ってきたヤスさん見た途端に硬直しちゃってたよ」

「まじか?」

「こんな顔してた」

 杏子は目を見開き、口元をひきつらせ、頬を震わせる。

 ユーモラスな表情に靖男が吹き出す。

「俺は熊か」

 屈託なく笑って杏子は炊事に戻る。

 靖男は寝ぐせ頭を掻いて窓の外のコンビニを見る。

 杏子は話を作ってまで冗談を言ったりはしない。彼女が言うなら、その男子はいたのだろう。

 しかし靖男の記憶には全く残っていなかった。



 ――――――――――――

 

 

 どうやって仇討ちの予行練習をするか――その妙案が浮かばないまま智朗は三十分ほど遠回りで走りきり、長後の家へ戻ってきた。

 智朗は家のやや手前で足を止める。

 門扉そばに見覚えのある自転車が止まっている。持ち主の姿は見えない。

 屈んで塀の飾り穴から覗くと思った通り、明日美が玄関先に座り込んでいた。傍らに今日も花を置き、首にタオルを当てて汗を拭いている。どうやら来たばかりのようだ。

 こんな早い時刻に訪ねてくるのは初めてだ。

(オレが出てくるのを待ってんのか?)

 智朗が走っていることを明日美は知らないはずだ。いつ出てくるか、そもそも外出するかもわからない自分を気長に待つつもりらしい。

(帰れよ)

 智朗は呆れてしまう。そして困った。

 走って疲れている。いつもならこの後はなにか食べて寝る。今日もそうするつもりだったが明日美が玄関で待ち伏せている。無視か邪険に扱って家に入ればすむことだが――そうできる自信がない。そうしたくもない。

 こっそり裏口に回っても鍵は玄関の物しか持っていない。

(しょうがない)

 幸い多少のお金は持っている。ファストフードかどこかでひと眠りして時間を潰そう。

 智朗はそのまま家を離れて、駅方面へと走り始めた。

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