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吠えない蝉  作者: 野間義之
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 仇が、近づいてくる。

 智朗(ともろう)の肩が、熱く固くなる。

 詰め寄ってくるなら刺してやる――ボディバッグの中でナイフを握り締める。

 せっかくの計画とは違うが、殺されて殺し損ねるよりはマシだ。


 しかし仇は智朗に注意を払うことなく傍らを通り過ぎると、飲み物やお菓子をテキパキと選んでレジへと向かう。

「いらっしゃいませ」

「暑いですね」

 レジの店長との親しげなやりとりが聞こえてくる。

「車、買ったんですか?」

「まさか! レンタカーですよ。休みのうちにベビーベッドとかかさばるのを一気に揃えようと思って。あと、奥さんの実家に行くんで」

「そうなんですか。奥さんの実家は?」

「千葉です」

「そのまま実家で出産?」

「そう言ったんですけど、こっちで産むってきかなくて」

「買い物してそのまま奥さんの実家?」

「いえ、今日は買い物だけで、千葉には明日」

「戻りは?」

「十五日に帰ってきます。妻の家に二泊ですよ」

「それは大変ですね。頑張ってください」

「それじゃ」

 仇は店を出て車に戻った。買った物を妻の膝に渡し、笑い合いながら発車させる。幸せそうだ。まるで住宅や保険のCMのように。それが智朗には妬ましく、憎らしい。

(お父さんを殺したくせに! お母さんを死なせたくせに!)

 車はすぐに視界から消えた。

 ナイフを離してバッグから手を抜いた。汗まみれの手のひらに冷気が心地良い。

(どっちも十五日には帰ってくる! 大丈夫だ)

 計画に支障は一切ない。

 立ち読みのフリで手にしていた雑誌がひどい有様になっていた。握っていた箇所はぐしゃぐしゃになっている。手汗も滲んでいる。

 まるで興味のないファッション誌だったが申し訳ないので買って帰った。そして、もう開きもせずに駅のゴミ箱に捨てた。



 家に戻ると、玄関に新聞紙にくるまれた花が置かれていた。『おばさんへ』というカードが添えられている。懐かしい明日美の文字だ。門柱裏の花瓶にも新しい花が活けてある。

 行き違いに来たようだ。

『第一希望は刑務所。第二希望は火葬場』

 我ながらイタイ台詞だったが、物騒さは伝わっただろうと思っていた。この国の常識で考えればもう関わろうなんて思わないだろうに。やはり明日美はまだ危機感が足りないと心配になってくる。

 まさかまた下手くそにギターを鳴らしたりしていないだろうか。

「こりねーヤツ」

 花をぶちまけて踏みにじり、その様を明日美に見せつけてやろうか。そうすればさすがに見放してくれるだろう。

 しかしこの明日美の厚情は父と母へのものだ。智朗が無碍にすることはできない。

 そして、胸に温もりが湧くのを抑えられなかった。

 智朗は花束を手に家に入ると、花瓶に活けて階段脇のシミのそばに置いた。

「明日美から」

 告げて手を合わせる。

 もし父や母が生きていたら、帰国した明日美をどう迎えただろう。少し想像しただけで頬が緩む。だから考えるのをあわてて止めた。

 彼女がいつまでこんなことを続けるつもりなのかわからない。放っておけばずっと続けそうな気がする。

 しかし八月十六日になれば、全て終わる。

「どうか……」

 続く言葉は空気に触れる前に消えた。




 午後五時五〇分。

「ちょっとぉ、どうして食べられないの!」

 琴美は店の外にも聞こえる金切り声を出した。

 例によって場所は渡部幸世が働く弁当屋だ。

 琴美は今夜休みだったが、わざわざ派手な夜の恰好で夕方の一番混雑している時刻に店を訪れた。

 入るなり変化に気がついた。立食スペースが使えなくなっている。

 スペースいっぱいに仕出しの容器が並べられ、店員たちが割りばしを添えて紙をかけている。壁には『本日店内でのお食事はできません』と貼り紙されている。

「申し訳ありません。今日はたくさんの注文をいただいていて、あそこを使っておりますので」

 幸世がやってきて頭を下げた。

「陰険ねー」琴美は腕組みし、人を不快にさせる薄笑いで挑発する。「アタシが食べられないようにでしょ」

「そんなことは……」

「そんなにアタシが迷惑なら……殺せば?」

 ずっと人形のような接客笑顔だった幸世が、眉間に皺を寄せた。

「やめてください」

「あれ、怒った?」

「お帰りください」

「嫌よ。客を追い出すの?」

「はい。もう来ないでください」

「何様? こんな地味な仕返ししてないで、殺っちゃいなさいよ。アタシを殺したいでしょ?」厨房を指差す。「刃物いっぱいあるじゃない。全部刺してもいいわよ。そんな度胸ない? だったら毒殺なんてオススメよ? アタシの弁当に混ぜれば簡単」

 毒、という言葉に幸世は確かに強い反応を示した。眉間の皺を濃くし、目を細め、言いたげに口が動いた。

 そのとき、居あわせた客の一人が割り込んできた。

「あなた、いい加減になさい」

 老婆だった。年金をやりくりしてどうにか日々を生きている生活苦が伝わってくる地味な格好だ。腰が曲がりやや前屈みではあるが、しっかりとした足取りで琴美の前に立った。中学生のときに他界した父方の祖母を思い出した。厳しくて父以上に苦手な存在だった。

「なによ」

 強がる琴美の頬を老婆が精いっぱいに体を伸ばして平手打ちする。

「いい加減になさい」老婆は体を振るわせて繰り返す。「そんなに殺すのなんのと粋がりたいのなら、私を殺してみなさい」

 琴美は唖然として老婆を見た。

「こんな年寄り、造作もないでしょう? それに私にはあなたに仕返ししようなんて身寄りももうないから安心して殺しなさい」

「アタシは!……」

 殺したいのではない。殺されたいのだ。そこの渡部幸世に殺されなくてはならない。

 老婆はさらに琴美の手を取り、自らの首にかけさせる。

「さあ」

 思いがけない老婆の介入に琴美はすっかり気が動転してしまった。


 もういい。

 このままこの老婆を締め殺してしまおうか。

 二度目の殺害からは以前同様に刑罰の対象となる。

 刑務所か。社会的な人生の終わりで手を打ってしまおうか。

 そういえば公殺は法的には殺害にあたらないから、この老婆を殺して初めてアタシは人殺しになるのか。

 いや今だって人殺しだ。法律なんて……


 琴美の手に力がこもりかける。

「やめてください!」

 幸世が琴美の手を払って老婆から引き離す。

『この女はもう札無しだから』

 こう幸世が叫ぶのではないかと思った。

 自分はもう人を殺す権利を持っていない。馬鹿な弱者だ。

『この女は夫を殺した泥棒猫だ』

 とどめだ。これを聞けばきっとここにいる全員がゾンビ映画よろしく殺到してくるに違いない。

 しかし幸世はなにも暴露することもなく、老婆に頭を下げる。

「ありがとうございます」

 常連客なのだろうか。親しげに幸世が制したが、老婆は琴美を睨む。

「人を殺していい権利なんて、おかしなモン持ってるからいけないんだ。そんな余計なモン、私らみたいな年寄りが全部引き受けてやるからジャンジャン殺しなさい。それで、おかしなモンは捨てて真っ当におなりなさい」

 琴美はなにも言い返せずに店を飛び出した。心を(えぐ)られていた。

 自分は一度人を殺しても、それでも真っ当になりきれずにいるのだ。

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