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早川琴美は真っ赤なパーティードレスに薄手のカーディガンを羽織り、ハイヒールにブランド物のバックという出で立ちで外に出た。
外階段を下りてアパートの前に出ると、上から名前を呼ばれた。
隣人の今井杏子が二階の窓から手を振っていた。
「今日はゆっくりだねー」
「寝坊して時間ずらしてもらったの。これでも焦ってる」
「そうなんだ。いってらっしゃーい」
手を振って返す。いつもながら、杏子の屈託のなさに驚かされる。
典型的に平和な住宅地で琴美の存在は浮き上がっていた。
物騒なご時世なので、歓迎しない人種であっても表面上は愛想よく友好的に振る舞ってくる。
「こんにちは」中年女性が挨拶してきた。ゴミを出しにきた近所の者だろうが、誰かは知らない。
誰もが笑顔で挨拶や会釈を交わす。なにを恨まれて殺されるかわかったものではないからだ。
しかし琴美は無視してすれ違う。
琴美が心を開いて会話する相手など、杏子ぐらいのものだった。
女性の憎々し気な視線を背中に感じるが――
「なによ」
振り返ると、むこうはあわてて首を戻した。
フン、と鼻を鳴らして視線を上げる。
琴美の住むアパート『カーサ・デ・ソル』の南隣に同じような造りのアパートが建っている。どういう事情かわざわざ北向きに居間とベランダが設けられているせいで南向きの『カーサ・デ・ソル』と向き合う恰好だ。
琴美の部屋の真正面にあたる部屋に渡部という母子が住んでいる。父親はもういない。
この時刻、まだ母親は弁当屋で働いていて、中学一年の長男と小学二年の次男が留守番をしているはずだ。
レースカーテンがわずかに吹く風に揺れている。電気代を節約するためだろう。子供たちは母の留守中にはなかなかエアコンを使わない。
今すぐあの部屋へ飛びこんでエアコンのスイッチを入れ、子供たちに有り金全部と刃物を差しだしたい――そんな衝動を堪えて歩き出した琴美が気づく。
(またいる)
これまでも度々見かけた少年だ。場所は決まって同じ。車道を挟んだ斜向かいのコンビニ駐車場の端近く。街路樹の幹に隠れるように立っている。
高校生ぐらいに見えるが、腕に未満章を付けていないので一八歳以上なのかもしれない。ウエーブがかった髪は無造作に肩より長くなっている。ロック系のロゴがプリントされたTシャツ、下はジャージという雑な恰好は、思春期の色気づいた雰囲気がない。
なにをするでもなく、無表情に立っている。
薄気味悪い。余計なことには関わらないに限る。
数分歩くと高座渋谷駅が見えてきた。駅舎脇の踏切そばにその店はある。
琴美が入った途端に、店の空気は一気に張りつめた。
(クレイマー様、本日もごらいてーん、てね)
琴美は自身を奮い立たせる。
その店は弁当屋だ。フランチャイズチェーンではなく個人店舗。立地に恵まれているうえに味がいい。しかも良心的な価格とあって繁盛している。
立食スペースも設けてあり、食べていく客も多い。
惣菜の量り売りもあり、この時間帯は食卓にもう一品添えようと主婦や仕事帰りのOLたちが駆け込んでくる。
そんな店内では見るからに今から『御出勤』な琴美は異分子だ。 誰もあからさまに白眼視したりはしない。ただ、一気に雰囲気は重苦しく、よそよそしくなる。
琴美は先客たちを押しのけてショーケースの惣菜を指差す。
「これとこれとそれ。そう、そのなんかケバい色の。ここで食べるから。早くしてよね」
琴美から高圧的な態度で注文を受けたまだ二十歳ほどのバイトの女の子は狼狽する。
それに構わず琴美はさっさと立食スペースへと向かう。背中に浴びせられる軽蔑侮蔑の眼差しを無視してテーブルに肘をつくと、煙草とライターを取り出して弄ぶ。禁煙なので火はつけない。それでも店内の悪感情が濃くなっていくのがわかる。
「お待ちのお客様ー」
「持ってきなさいよ。サービス、クソね」
琴美は面倒くさそうに受け取りにいくと、弁当を見るなり腕を組んで若い店員をにらみつけた。
「ちょっとぉ、フタもしないの? それと袋に入れなさいよ」
「でも、あの、ここで食べてくんですよね?」
「『こちらでお召し上がりですよね』でしょ? アンタ、客ナメてんの? それにコレ、盛り付け汚くて食欲失せる。やり直して」
琴美は店員の手から弁当をはたき落した。中身が辺りに飛び散る。
「ほーら、フタもしないからそうなるのよ。さっさと作り直しなさいよ。もー、手が汚れちゃったじゃない! 拭く物! 気が利かないわね」
琴美が喚いていると、奥の調理場から女性が一人出てきた。歳のころは三十代半ば。割烹着に頭巾という出で立ちだ。
「エリちゃん、ここはいいから」
今にも泣き出しそうな若い店員を厨房へ押しやり、琴美に頭を下げる。
「お弁当はすぐに作り直しますので、もうしばらくお待ちください」続けて他の客に呼びかける。「すみません、足元に気をつけてください。すぐ片づけます」
すると客たちがしゃがみこんで床に落ちた物を集め始めた。
「すみません。すみません」
恐縮する女性を、
「さっちゃんが謝ることないわよ」
「そうそう」
客たちが口々に励ます。
「食べ物を粗末にして。ああもったいない」
気の強そうな初老の女性客が聞こえよがしに毒づいて、それを周りがあわてて止めた。
ほどなくして、さっちゃんと呼ばれていた割烹着の女性は作り直した弁当を持って琴美に近づく。
「大変お待たせしました」
琴美は投げるように金を支払う。袋から弁当を取り出し、その場で食べ始めた。
不味そうな顔で、それでも全部平らげると黙って店を出ていく。
なんなのよ、あの女はいつもいつも――そんな文句が店内で爆発しているような気がした。
駅のトイレに入ると、琴美は便座に腰を下ろす。胸に、腹に、頬に手をやって変化を待つ。
しかし、何分待ってもなにも起こらない。
失望と安堵がない混ぜになった、いつもの疲労感に襲われる。
この町に越してきて以来、琴美は頻繁にあの店を訪れてはあのような振る舞いを繰り返していた。
今日もおいしかった。繁盛するのも納得だ。
(アイツ、アタシの料理をおいしいって言ってたけど、それも嘘だったのね)
あの店の味に、あの女性の味に比べれば、自分の料理など小学校の家庭科レベルだ。
営業妨害の輩としか思えない琴美に今日も丁寧な態度を貫いたことも尊敬に値する。
割烹着の女性の名は渡部幸世。友人と始めたあの弁当屋で調理全般を担当している。琴美の真向かいに住まう兄弟たちの母親。
そして、琴美が公殺した男の妻だった。