38 第十章 八月十二日
八月十二日、午後二時過ぎ。
明日美は松川家の門前に自転車を止めると、門扉を開けて中に入る。
まず門柱の裏にしゃがみこむ。干からびた花を花瓶から抜き、中身を捨てる。腐った水が土に吸われ、ボウフラが苦しげに体をくねらせた。
「ごめんね」
手を合わせると明日美は庭の外水道をひねる。赤茶けた水に続いてきれいな水が出はじめる。花瓶を濯いで水を注ぎ、持参した花の半分を活けて元の場所に供える。花は祖父母が庭で育てているものを分けてもらった。
手を合わせる。
あとの半分の花は『おばさんへ』と書いたカードを添えて玄関先に置いた。
玄関越しになるが、手を合わせた。
昨日からずっと、智朗の言葉が、様子が頭から離れない。
『第一希望は刑務所。第二希望は火葬場』
智朗はなにをするつもりなのか、と深く想像するまでもない。
おじけづく気持ちもある。
それでも明日美は智朗の味方でいたかった。
とにかく智朗のそばにいて馬鹿なことをしないように見張っているしかないが。
意を決して来たものの、智朗の姿を見ることはできなかった。
呼び鈴を鳴らしてもなんの反応もない。留守なのか無視されているのか。
智朗と連絡を取り合う手段もなかった。
パソコンのメールアドレスや通話ソフトのアカウントは一年近く前に消されてしまったし、明日美の知る限り智朗は携帯電話の類を持っていない。
『携帯壊れた』
パソコンの画面の中で智朗がそう告げたのは去年の春だった。
「どうして?」
『どうしてっていうか普通に寿命』
中学から使っていた智朗の携帯電話は父親のお下がりで、使用年数は相当なものだった。
「次はスマホ?」
『いや、しばらく携帯とかスマホは無し』
「えー、なんで?」
『お父さんがギター買ってくれるって。それでスマホまで買ってもらうのもなんか悪いじゃん』
ギターは自分で買うのにといった顔だが、声には嬉しさが滲んでいる。普段は『父さん』『母さん』だが感情が高いと『お父さん』『お母さん』と素になるのですぐわかる。
「よかったね。エレキ? アコースティック?」
『アコギ』
「今度はムダにならなきゃいいね」
『うっせー』
高校入学祝いのパソコンは、本来の目当てだった音楽ソフトを使いこなせないままだった。
「でも携帯ないと不便じゃない」
『なんとかなんじゃね』
「カノジョ持ち男子としてそれってどうなの?」
頬をふくらませると、智朗は痛いところを突かれたようだがすぐに取り繕った。
『でも、ほら、さすがにもうワガママ言いにくいし」
「智朗くん、もともとギター買うお金貯めてたじゃん」
それで携帯かスマホを買えばいいじゃないかとつっこんでみると、智朗はうつむいてモジモジし始めた。
「なに」
『あの、さ』
「なに?」
『そっちいこうかなって』
「えっ?」
『だぁら、ギター用に貯めてた金でそっちに行くって言ってんの』
キレ気味に宣言する。明日美の反応を待つ顔が赤くなっているのが画面越しにもわかる。
気持ちは嬉しいが、それよりも驚きや心配が大きい。高校生男子が彼女に会いに行くには距離があり過ぎる。
「足りる?」
『足りない分は借りる』
(そっちのほうがワガママだよ)
松川家は家族仲がいい。そのせいか智朗は親に妙な気遣いが過ぎるところがある。携帯さえ買ってくれと言わない智朗がイギリスへ遊びに行くお金を貸してくれと親に頼むほうがよほど心苦しいのではないか。
気持ちはとても嬉しい。「いつか行くから」とも言っていた。それでも明日美の帰国の方が早いだろうと内心で思っていた。
「ムリしないでいいよ。来年には帰るんだし」
『でもさ……』
諦めきれない様子の智朗。目当ては明日美だけではない。
智朗にとってイギリスは憧れの国だ。彼の地の空気を通して大好きな曲たちを聴きたい、歌詞に歌われた風景を見てみたい――その気持ちはわかる。
だから――
「イギリスには一緒に行こうよ」
急ぐことないと諭した。
『わかった』
智朗も納得してくれたようだった。
「だからさ、スマホでも携帯でも持ってたほうがいいよ」
明日美はイギリスでは現地メーカーの携帯電話を使っている。時差や料金の問題があるので智朗と電話で話したことは一、二度しかない。やりとりはパソコンでのメールや今のような通話ツールばかりなので明日美はそれほど問題はない。しかし智朗は困るだろう。
『ううん、なくても大丈夫だろ。あってもウザイこと多いし。あっ、明日美のはちがうぞ』
思った通りの返事で明日美はまた心配になった。
智朗は人づきあいを億劫がるところがある。悪目立ちしないように気をつけているようだが、そういう性分だと周囲は気づいている。明日美ができるだけフォローしていたが、一人でうまくやれているのか気を揉んでいた。
「ガラケーなら安いんじゃない?」
勧めてみるが智朗は腕組みして『でもなー』とうなる。これはまだなにかあるなと思っていると――
『エレキもほしいんだよなー』
智朗らしい優先順位に明日美は吹き出した。
「だったらしょうがないね」
あのとき智朗を止めたことを明日美は後悔していた。
すでに公殺法が始まっていたが、まだ一般人も諸外国との行き来はできていた。
もし智朗がイギリスに来てくれて、滞在中に状況が変わって日本へ戻れなくなっていたら――ついそんなことを考えてしまう。
智朗との交際は両家の親公認だ。もしイギリスに残留することになっても、智朗を路頭に迷わせるようなことは父母もしないだろう。
智朗の両親の悲劇は変えられないかもしれない。それでももし智朗がそばにいれば、もし智朗のそばにいれば、彼を慰めて支えることができたかもしれない。
もし、もし、もし。
もしを重ねた都合のいい妄想だと自分でもわかっている。思い上がりかもしれないことも。
それでも、もしそうなっていたら智朗があそこまで暗い際に心を落とすことはなかったのではないか。
そして、もしそうなっていたら。あのとき、そばに智朗がいてくれたならあんな目に遭うこともなかったのではないか。
――そう思わずにはいられなかった。
その頃、智朗は例によって大和市の『カーサ・デ・ソル』へ偵察に来ていた。
昨日から仇の会社は夏休みに入っている。それは調査済みだ。
昨日は習慣で朝に偵察に来て空振りに終わった。そこで今日は昼間に来てみた。ちょうど明日美とは行き違いになっていた。
朝夕と違い、昼日中の炎天下にジャージ姿でジョギングは目立つ上に健康上もよろしくない。いよいよあと四日なのだ。熱中症で倒れている場合ではない。
電車を使い、ちゃんと洗ったTシャツにジーンズ姿だ。ボディバッグにはデジカメも忍ばせている。万が一、仇の目にとまってしまったら風景を撮りにきたカメラ小僧のフリをするためだ。髪を後ろで束ねてキャップまで被っているので、これでカメラを構えたら違った意味で不審な若者だが智朗はそこまで気にしていない。
デジカメは母が花の写真を撮るのに使っていた物だ。ときどき仇の写真を隠し撮りしていた。それをプリントアウトしては、カレンダーの横に貼って千枚通しやナイフを突き立てている。
智朗が近くに到着すると、ちょうど『カーサ・デ・ソル』の敷地に見慣れない車が停まるところだった。
ワゴン車の運転席から仇が降りてきた。仇が車に乗っているのを初めてみた。借りてきたのだろうか。
智朗は斜向かいのコンビニに入って雑誌を立ち読みするフリで様子を窺う。
アパートからお腹の目立つ妻が出てきて車の助手席に乗り込んだ。仇は部屋と車を幾度か往復してバックなどを積み込む。
やがてそれが済むと仇の運転で車が動き出す。
(旅行? まさかまた引っ越す?)
もしそうなら計画は大きく狂う。
ワゴン車はアパートの敷地を出たかと思うと、やきもきする智朗に迫ってきた。コンビニの駐車場に入ってきたのだ。
あろうことか、立ち読みする智朗の真正面に仇の車が頭から駐車してきた。
すぐ目の前に、仇がいる。
仇をこの距離で正面に見るのは初めてだった。
鼓動が暴れる。全身の血管が重く脈打ち、耳の奥がバスドラムのような音を聴く。
たすきにかけていたボディバッグを胸前へと回す。手が入る程度にファスナーを開く。デジカメの他にあのナイフも入っている。
凝視してしまう。気づかれると思いながらも目を逸らせない。
ガラス二枚を隔てたむこうで、仇は助手席の妻と楽しげに喋っている。智朗を一瞥さえしない。
やがて仇は一人車を降りた。
あわてて視線を雑誌に移して立ち読みを装うが、店に入ってきた仇は智朗に近づいてくる。
(バレた!?)
智朗はキャップのつばで顔を隠し気味にしながら、右手をバックに入れ、ナイフを掴む。刃には鞘代わりにタオルを緩く巻いている。外す暇はない。
(このまま刺してやる!)
智朗は急ごしらえの覚悟を固めた。




