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吠えない蝉  作者: 野間義之
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 智朗(ともろう)は叔父たちの目を盗んで家を抜け出した。通夜や葬儀でうなだれている場合じゃない。今井靖男を殺すことが母と父へのなによりの手向けだ。

 小田急線とJRを乗り継いで横須賀を目指す。

 平日の夜、もう十時近いが塾帰りと思われる制服姿の高校生たちも多い。制服のブレザー姿の智朗も一見すれば不自然ではない。

 それでも智朗は警戒された。藤沢や大船の前後はそれなりに混むが彼の周りに誰も近づいてこない。

 殺す、殺す、と独り陰気につぶやく若者に近づくはずがない。

 乗客たちは小声小声に囁き合う。

「制服じゃん。高校生だろ。ビビることないだろ」

「十八で今日学校やめた帰りだったらどうするよ。未満章してないし」

「成人のコスプレってこともあるか」

「ばか、ふざけんなよ」

 周囲に緊張と悪感情を強いていることに、智朗は気づきもしない。乗降扉の傍らで、すがりついた手すりに額をつけ「今井靖男、殺す」「殺す」「お父さんとお母さんの仇だ」とボタボタと口からこぼし続ける。

「キチガイのセミかよ! キモイんだよ」

 未満章を着けた高校生があさっての方を向き、仲間内の会話を装って声を飛ばす。幾人かは噴き出したり失笑したりと反応したが、大多数の乗客はそれでも押し黙っていた。

 智朗はまったく意に介さなかった。気付いてさえいない。

「殺してやる。テメーは仇だ」

 線路の先にいる男への怨嗟を垂れ続ける。


 (かたき)、という言葉に目眩がした。

 自分の人生に、『仇』と呼ぶ者が現れるなど夢にも思わなかった。

 以前耳にしたときは実感が薄かった。あの男は『加害者』、『犯人』だった。

 しかし今、仇という言葉でしかあの男を表すことができない。

 己の手で害すると決めて初めてその者は『仇』になるのだと智朗は思った。

 きっと今の日本國には『仇』が大勢いる。自分のように仇を持つ者がその何倍もいるに違いない。公殺法が生み出したのだ。

 智朗の、両親の仇は、自衛官だ。

「なにが自衛隊だ、人殺しのくせに」手すりに頭を打ちつける。「人殺しの軍隊だ。だったらこれは戦争だ」

 憲法で他国との戦争を放棄したはずの日本國は、無数の個人戦争を自家発電する国へと変わってしまった。



 仇が暮らす町に着いた智朗はナイフを握りしめて歩く。夜道で智朗と出くわした人たちはぎょっとした声を上げ、逃げていく。

 仇が在宅か否かなど考えもしなかった。いなければ仇の妻を殺して待てばいい。

 しかし――

 あの部屋は空き部屋になっていた。見上げれば入居者募集の広告がカーテンもない裸のガラス窓に貼られている。

 仇は姿を消した。

 外階段を上がり、仇が暮らしていた部屋の扉をにらむ。呼び鈴を鳴らすと、なかで虚ろに大きく響く。ただそれだけだ。なんの応答もない。気配もしない。

 智朗は何度もノックする。拳で殴る。蹴る。ナイフを突き立てる。頭を、肩を打ちつける。

 復讐は、ただ扉一枚を痛めつけただけで終わってしまった。

 あとはもう、へたりこみ、慟哭するしかなかった。


 


 母の葬儀も終わり、叔父たちとの話し合いの末に智朗は当分一人で暮らすことになった。

 叔父の監視は入るが、生活費としてある程度の現金を自由に使えるようにもなった。

 そこで情報提供会社に仇の行方を探すよう依頼した。仇の情報を売りこんできたあの男の会社だ。電話で名指ししてあの男に用件を告げた。

 数日後、以前と同じ喫茶店に男はやってきた。

 職業柄か男は母の自殺を知っていた。

「お母さんは、気の毒だったな」

「どうも」男の弔意は本心だろうが、気が急いている智朗にはどうでもいいことだった。「アイツの居場所、わかりましたか」

「もちろんだ」

「ください」智朗は以前と同額の紙幣を渡した。「足りませんか?」

「居場所を知ってどうする」

「殺しますよ」

「まだ十七だろ」

「貴方に関係ないでしょ」

「未成年に情報売ってそいつが犯罪者になるなんて、いくら俺でも寝覚めが悪い」

「犯罪者はあっちでしょ。人殺しだ」

「法律が許してる」

「オレは(ゆる)さない」

 壁のような智朗の受け応えに男は鼻白む。

 察した智朗はずる賢く笑ってみせる。

「大丈夫ですよ。ちゃんと十八になるまで待ちますから」

 男は気圧されたように紐つき封筒を差し出すとコーヒーも飲み残してそそくさと立ち去った。

「いいか、バカなことすんなよ」

 最後の念押しを鼻で(わら)う智朗。オレはバカじゃない。この状況が、この国がバカなのだ。

 


 報告書によると、仇は自衛隊を辞めていた。事情は不明だが、自衛隊に在籍していた記録そのものがなくなっているという。除隊は珍しいことではないが、経歴そのものが抹消されるというのは有り得ないことらしい。

 しかし智朗にとって、そんなことはどうでもよかった。仇の身の上など知ったことか。

 生きている。よし、殺せる。

 あとは今どこにいるかだ。まっとうな人間なら、後ろめたい場所からは遠ざかりたいだろう。遠くに行ってしまったに違いない。

 ところが仇は今、藤沢市で会社員になっていた。しかも智朗が暮らす町からたったひと駅の大和市の町で暮らしているという。

(ない! いくらなんでもこれはない!)

 あまりの内容に一気に頭に血が上った。鼓動と呼吸が早くなる。また具合が悪くなってきた。

 よろめきながら家に帰り、そのまま横になる。

(情けな……)

 自分の弱さに腹が立った。

 あくる日の早朝、ようやく体調が戻った智朗は報告書にあるアパート『カーサ・デ・ソル』を訪れてみた。はたして本当にあの仇がいた。さまになっていないスーツを着て高座渋谷駅に入っていく。

 智朗も続いて駅に入る。ホームは通勤通学の人々で混み始めている。乗車口ふたつ分の距離を取って仇を盗み見る智朗。

 仇は電車待ちの列に並ぶ間に眼鏡をかけた。やがてやってきた藤沢行きの電車に乗り込む。智朗も続いて電車に乗る。

 高座渋谷駅を出た電車はすぐに長後駅に着く。立っている仇は顔を一層下へ向けた。誰とも目が合わないようにしているようだ。

 そして長後駅を出ると、仇は顔を上げて窓の外に目を向ける。

(うちの方だ……)

 智朗がみつめるなか、仇は目を閉じて、小さくかすかに頭を垂れた。


 湘南台で降りた仇は眼鏡を外して歩き出す。駅を離れるとすぐに工場地帯だ。

(私服でよかった)

 平日のこの時刻に高校の制服では目立っただろう。

 上り下りの多い地形だが、仇の歩調は全く乱れない。一人で行軍しているような力強さと健脚ぶりが憎らしくて智朗は舌打ちする。汗を袖で拭って尾行する。

 十五分ほど歩いた仇はとある工場へと入っていく。工場名は報告書と一致する。ここで事務職をしていると書かれていた。

 さすがに中には入れない。智朗は来た道を引き返す。

 思い返し、考える。

 電車に乗るときの眼鏡、あれは変装のつもりなのだろうか。だとしたら、あの男にも罪の意識はあるということか。

 そしてあの黙祷じみた仕種。あれは殺した父に向けてのことだろう。

 あの男はそんなことで自分を赦し、慰めているのだろうか。

 どう考えても、赦すことなどできそうにない。なにもかもが、自分勝手過ぎる。

「殺す。絶対殺す」

 改めて誓う

 湘南台の駅前に戻ってきた。疲れた。汗が止まらない。長袖のシャツを脱ぐ。下にTシャツを着ていてよかった。

 販売機で冷たいお茶を買って飲む。

 初夏の陽気とはいえ、たかだか三十分かそこら歩いただけでこの(ざま)だ。

 ふとそばのバス停が目に止まる。そういえば先ほどの工場のすぐそばにもバス停があった。駅からバスでも職場には行けるはずだ。わざわざ徒歩を選ぶのは、体を(なま)らせないためだろうか。

 元自衛隊員。体格もいい。いまでも自主的に鍛錬をしているかもしれない。

 対して自分はひ弱で(どん)くさい方かもしれない。

 怒り任せに仇を殺そうとした。最初は怖気づいて逃げ帰った。この前は空振りに終わった。二度とも仇と向き合うことさえなかった。しかし、もしそうなっていたら、殺せただろうか。返り討ちに遭っていたのではないか。

 今日は殺さないと決めていた。明日も殺さない。

 殺すのは、八月十六日。十八歳の誕生日だ。

 まだ時間はある。智朗は、仇討ちの計画を練った。



 ――どう首を絞めればより短時間で窒息死させられるか。

 ――包丁はどう刺せば確実に心臓へ届くか。

 ――轢き殺すにはどのような車で、どれだけのスピードで衝突すればいいのか。

 ――どんな毒が便利か。

 日本國のインターネットや書店には人を殺すための『how to』や『know how』が溢れている。

 智朗は仇が捨てていったナイフで、父親がされたように心臓を突き刺してやりたかった。本によると、それにはある程度の膂力が必要らしい。今の自分では難しいようだ。まずは体を鍛えなくては。

 もし防御や反撃された時のことも考えなくてはならない。ナイフを奪われれば、逆に自分が殺されてしまう。智朗に殺す権利はあっても、仇におとなしく殺される義務はないのだ。

 それに仇は父を殺したが、行使されたのはあの老人の公殺権だ。仇自身の公殺権はいまだに残っている。いざとなれば仇は智朗を公殺できるのだ。

 失敗は許されない。慎重にいかなくてはならない。


 願いを叶えるために、これまでの人生で縁も興味もなかった筋力トレーニングを始めた。

 朝晩は仇の偵察を兼ねてジョギングを行い、バーベルなどの器具も購入した。


 いよいよ学校には行かなくなり、ジョギングと最低限の買い物以外で外出することもなくなった。

 父も母もいなくなった松川家は耳が痛くなるほど静かだった。

 テレビは現実とかけ離れた明るさと娯楽と夢と希望と愛を無神経に吐き出し、押しつけてくるばかりで見る気になれない。

 耳が寂しかった。一時期は拒否感のあった音楽をまた聴きたくなった。

 家中のCDやレコードを聴いた。ほとんどが父と母のコレクションで洋楽だった。歌詞を直接に理解しきれない分、耳障(さわ)りが少なく聴くことができた。

 あのギターを弾いてみたいという欲求がいよいよ強くなってきた。智朗はついにギターを抱いた。

 チューニングもなにもわからないまま、六本の鉄弦を指先で撫でた。

 不協和音。それでも智朗は「うおぉ」といつぶりかで無邪気に感動していた。

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