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吠えない蝉  作者: 野間義之
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 父の生命保険の支払いは認められた。公殺による死亡も対象となるように父自ら契約内容を見直していたのだという。ひょっとしたら殺される覚悟を持って日々仕事に臨んでいたのかもしれない。智朗は感傷を深くした。

 おかげで当面の生活に窮することはないが、それだけで母子が末長く暮らしていけるわけもない。

 これまで母は週三日程度のパートに出ていたが、フルタイムでの仕事を探し始めた。しかし上手くいかない。独身時代は銀行で働いていた。経理に関する資格も持っている。それでも正社員はおろか、派遣会社への登録さえままならないようだ。

「もう歳も歳だし、不景気だからね。そのうち決まるわよ。智朗は心配しないで勉強しなさい」

 母は悠揚迫らぬ風を装う。

 年齢や不景気のせいだけではないと智朗はわかっていた。

 昨今まともな会社は人を雇う際に身元調査を行う。

 公殺された者の遺族だと知られると、採用されにくい。恨みを抱く者が一人とは限らない。怨みに思う者を誰かに先に公殺されても気がすまない者が、その殺意を遺族に向けるということもある。

 問題のある人間を雇ってトラブルを職場に持ちこまれるのは御免だからだ。

 殺されるほど人に恨まれる者の家族なら、人間の程度は似たようなものではないのか――そんな偏見も存在する。



 職探し以外にも母は苦しんでいた。

 智朗が学校でされているように、母も近所や親類たちから遠巻きにされているようだ。

 要領よく立ちまわるのが苦手な母が心配だったが、そこに踏み込むことは十七の男子には難し過ぎることだった。


 冬になり、母の様子がおかしくなってきた。

 パートを休みがちになり、馘首(くび)になった。

 何日も食事を作らなかったかと思えば、あの日は朝から鍋料理を準備する。

 食卓には必ず三人分の食器が並べられる。智朗にだけ先に食事をさせ、自分はなかなか食べなかった。「お父さん、遅いね」

 連れ合いを待つ顔は、真剣そのものだった。

 就職活動のために履歴書を書いても、その内容は亡き父の経歴であった。


 心の病だと智朗にもわかった。

 いくら病院にかかることを薦めても、母は耳を貸さない。

「なにもおかしくなんかないでしょ。なにを言っているの?」

 息子のほうこそどうかしてしまったのではないかという口ぶりだ。

 そうこうしているうちに家から出なくなり、智朗の外出も止めるようになった。

「智朗、どこに行くの」

「学校だよ」

「危ないでしょ! やめなさい!」

「大丈夫だって。オレ、十七だし」

「だめ! 先生に殺されたらどうするの!」

「だから、オレ、未成年だから」

「先生は戸籍だって自由にできるのよ! 行っちゃだめ」

 教師にそんな力があるわけはないが、母にとって妄想は現実だ。

 毎朝こんな調子で引き止められ、学校が面白くなくなっていた智朗はついつい休みがちになった。


 手渡されることのなかったギターは、父の形見となってしまった。ケースにしまわれたまま部屋の壁に寄りかかっている。

 弾いてみたくなることもあるが、不謹慎だと諌める気持ちの方が強かった。

 父が殺されたのに暢気にギターを弾くような薄情な息子だと母をさらに悲しませたくなかった。


 二〇一二年の春になり、休みがちな智朗もどうにか三年生に進級することができた。

 いっそ退学してしまうかと自棄(やけ)になる日もあるが、それは父に申し訳ない気がして踏みとどまった。

 思い出したように登校すると、自分が受験生なのだと思い出される。

「将来の職業や夢のためにどんなことを学ぶか、よーく考えて志望校を決めるんだぞ」

 担任の中島が希望進路調査のプリントを配る。

(夢なぁ……)

 智朗はためいきをついた。

 夢はなにかと問われれば、心は「ミュージシャン」と答える。

 憧れを口にしたことはなかったが、父は見抜いていたと思う。だからギターを買ってくれたのだ。ギターに触れずにいるのも親不孝に思えてならなかった。

 父が気付いていたなら、母もそうだろう。

 明日美もそうだった。イギリスに発つ前に彼女と交わした約束を思い出して、また胸が痛んだ。


 勉強も嫌いではなかったが、やはり心が躍るのは音楽に触れている瞬間だった。

 それでもとりあえず大学へ進学するんだろうなと以前から漠然と思っていた。


 大学で趣味の合う気の置けない仲間と出逢い、バンドを始めてデモテープを大手レーベルに送って。

 いや、今時そんな下手(したて)に出る必要なんてない。

 それに『テープ』って。ネットで独自に配信すれば話題になってむこうから来るさ。

 大体、レコード会社に頼ろうって発想が時代遅れだよ。

 

 まだなにもしないうちから根拠のない自信だけは溢れ、夢物語を思い描いていた。

 一方で愚にもつかないサクセスストーリーを期待して大学へ進むことへの後ろめたさもあった。ならばせめて金銭の負担が少ない国公立の大学に受からなくてはと、子供なりの気配りを胸に秘めてもいた。

 

 しかしもう状況はまるで変わってしまった。

 まずは経済的な問題だ。母が快復して働き先が見つかったとしても、智朗を大学に通わせるのは並大抵の苦労ではないだろう。

 それに父が殺されてからというもの、以前のように音楽にも夢中になれない。

 勉強などもっと身が入らない。

 やはり就職するほうがいいだろう。進学校なので就職希望は目立つだろうが、智朗の場合もう今更だ。

 就職希望ならアルバイトだってしやすくなるかもしれない。とにかくまずは働いて家計を助けて、母を心の病をなんとかしなければ。

『大学には行かない。働こう』

 四月のある晩に決意を固めた。明日、母に告げよう。どんな反応が返ってくるか想像は難しかった。それでもまずは伝えることから一歩目が始まると思えた。


 その夜が明ける前に、母は自殺した。

 階段の支柱に結んだ縄の先を首に巻いて、ぶら下がった。



 叔父夫婦が通夜や葬儀の段取りをつけている間、智朗は部屋に閉じこもって自らを責めた。

 母がいきなりこんな行動に出るとは思っていなかった。

 いや、母の自殺の兆候を見逃していただけではなかったのか。

 もっと早く無理やりにでも病院へ連れていっていれば、こんなことにはならなかったのではないか。

 後悔は重く鋭く積もっていく。

 どんなにきつく目を閉じても、涙がこぼれる。歯を食いしばっても、嗚咽がもれる。

「アイツを殺しとけば……」

 そうすれば母の留飲も少しは下がって、心を壊すことはなかったのではないか。

『オレが人殺しになったら、お母さんが悲しむ。オレが死んでしまったら、お母さんが独りきりになってしまう』

「死ぬよりずっといいに決まってる!」

『オレが今井靖男を殺したら、オレもヤツと同じになっちまう。あんな人間とは違う。法律が許すからって人を殺すなんて』

「言い訳すんな。死ぬのが怖かっただけだろうがッ!」

 己の怯懦(きょうだ)が母を死に追いやってしまった――その結論に達したとき、智朗は今井靖男への復讐を決意した。

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