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吠えない蝉  作者: 野間義之
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 智朗(ともろう)はキャップを目深にかぶり、距離を取って今井靖男とその妻のあとを追って歩く。

 もし見つかったときは顔を逸らして素知らぬ風を装うつもりだった。しかし二人は振り向きもせずにさびれかけた町を歩いていく。

(今井靖男……)

 父を殺した男の背中を見る。

 黒のポロシャツ越しでもがっちりとした肩や背中が見えるようだ。棍棒のような足がハーフパンツから突き出て出ている。短く刈られた髪と相まって、屈強、筋骨隆々という言葉を連想させる後ろ姿だ。

 二人は小さな診療所の前で足を止めて、もめ始めた。智朗は手近な路地に隠れた。

 出掛けのやりとりから察するに、妻が今井靖男を医者に診せようとしているのだろう。しかし今井靖男はさっさと行ってしまい、妻は仕方なく諦めたようだ。

 もめている間に今井靖男の顔を盗み見ることができた。

 資料の写真では逞しく不敵な面構えだった。頬は肉づきよく盛り上がり、そのむこうの目は細く鋭く威圧的だった。

 しかし実際の今井靖男はやや印象が異なっている。

 頬は平坦で、その分目が大きくみえる。顔色も悪い。写真と比べてやつれているという印象だ。

 なにかの病気だろうか――同情しかけて、頭をふる。そんな男が殺し屋じみたことをするわけがない。

(良心の呵責ってやつか?)だとしたら余りにも身勝手だ。(殺しておいて自分も苦しんでます、か!? おまえは生きてるから苦しめるんじゃないか!)

 気分が悪くなってきた。心臓はずっと強く脈打っている。体中の血が頭に集まっているような感覚だ。針で突けば水風船のように頭が真っ赤に爆ぜる気がする。

 やがて今井靖男と妻は駅そばの小さなスーパーに入った。

 智朗は一旦駅近くまで離れると、人待ち顔でそこからスーパーの出入り口を見張る。自販機で水を買って額や頬に当てる。さらに手の平に水を受けてそのまま顔を洗う。しかし心地良さは一瞬だった。鼓動も頭痛も収まらない。

 ほどなくして買い物袋を提げた今井靖男と手ぶらな妻が出てきた。

 二人は来た道をアイスをかじりながら来た道を戻っていく。仲睦まじい幸せな若夫婦にしか見えない。

 アパートに着く。外階段の下から今井靖男らが消えたドアを見上げる智朗は全身を震わせる。

(人殺しのクセに!)

 もしかしたら今は少しばかり罪悪感を抱いているかもしれない。しかしそれだっていつまで続くかわかったものではない。

 今井靖男は誰からも罰せられることもなく、いけしゃあしゃあ、妻と暮らし続ける。

 そんなことが赦されていいわけがない。

「オレが殺してやる」

 階段を上がっていく。

 ナイフを取り出す。くるんでいるタオルを外すのがもどかしい。

 肩が熱く、固い。手が、腕がつっぱる。

 階段の半ばで足がもつれて踏み外した。どうにか手すりを掴んで落ちずに済んだが、下半身を打ちつけてかなりの音を立ててしまった。

「痛ってぇ……」思わず声も漏れた。

 立ち上がらないと――しかし立ち上がれない。膝に力が入らない。

(なんで!)

 蝉がいない夏のさびれかけた町は静まり返っている。不審な物音を聞きつけた今井靖男が部屋から出てくるのではないか。

 誤魔化す、命乞いするという発想は湧かなかった――殺すか、殺されるかだ――このざまでは自分が殺される。

 怒りや憎悪は恐怖へと一変した。

 ナイフはタオルに絡んだまま数段下に落ちていた。手を伸ばすが届かない。

 腰が立たない。階段にへばり付いていることしかできない。

 もうすぐあの男がナイフを手にしてやってくるに違いない。


 しかし、なにも起こらなかった。


 微かなテレビの音。あの部屋からだ。

 安堵した途端、腰に、膝に力が戻った。

 ギクシャクする体でナイフを拾い上げると、そのまま立ち去ってしまった。



 横須賀をあとにする。

 電車に揺られながら智朗は奥歯を噛みしめる。

 ようやく鼓動は落ち着いたが、自己嫌悪が体中を巡る。

 父を殺した男を目の前にして、なにもできなかった。しなかった。

 もしあそこで転ばなければ――

 自衛隊で日々鍛えている今井靖男に対して、自分は運動嫌いで喧嘩もろくにしたことがない。たとえ不意を突いたとしても殺せたという保証はない。

 むしろ返り討ちに遭っていただろう。自分も殺されるか、そうでなければ殺人未遂で警察行きだ。

(これでよかったんだ)

 べつに恐かったからじゃない。足がすくんだわけじゃない。階段で転んだのは、きっと熱中症だ。

 自分を正当化して強がると、今度は人を殺そうとしたことに戦慄する。

(頭に血が上っていたから。誰だってああなるに決まってる)

 衝動的だったと言い訳すると、べつの自分がささやく。

(ナイフを持っていったくせに)

 ちがう、と反論を考えかけて智朗は止めた。

(オレは人を殺さない)

 意気地がないから殺せない、とも思った。

 頭を振る。

(オレが人殺しになったら、お父さんが悲しむ)

 ありきたりな着地点を見つけると、もう今井靖男に会いに行ったりしないと心に決めた。

(オレが人殺しになったら、お母さんも悲しむ。オレが死んだら、お母さんが独りきりになってしまう)

 息子の墓にまで花を供えさせてしまうのか。そんなことあってはならない。

(それに今井靖男を殺したら、オレもヤツと同じになってしまう。自分はあんな人間とは違う。法律が許すからって人を殺すようなことはしない)

 そして最後に、かすかに思った。

(それに、オレはまだ十七なんだ。どうせなら……)

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