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吠えない蝉  作者: 野間義之
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 智朗(ともろう)は情報提供会社の男と駅そばのコーヒーショップに入った。


 資料によると、父を殺した男は横須賀に住んでいた。

 名前は今井 靖男(やすお)。妻帯者で妻の名前は杏子(きょうこ)。子供は無し。陸上自衛隊・久里浜(くりはま)駐屯地勤務の二八歳。

 この男が、父を恨んでいた男に代わって父を殺したのだという。

 公殺権(こうさつけん)代理行使はまだ試験段階で、様々な地ならしが済むまでけして公にはされない。マスコミにも報道の許可が下りていないという。

 父はその『公殺代行』のテストケース第一号だった。

 父親が殺害されただけでも悪夢じみているのに。それに国家が関わっているなど。

 ふざけている。あまりにも現実味がなさ過ぎる。

 だいたい国家機密ともいえる情報を、一介の民間企業がどうして知り得るのだろうか。


 目の前でコーヒーをすする五十がらみの男は、くたびれたスーツにちゃちな皮靴という風体だ。食い詰めて詐欺を働いているのではないかと思える。

 男はためいきをつく。

「人と実験動物の区別もつかない政治家もいれば、そいつの足を引っ張るために正義漢気取りで情報を漏らす政治家もいる。日本國(にほんこく)ってのは昔からそういうトコなんだよ」

 智朗は何も言っていない。表情に疑心が出ていたのだろうか。心を読まれたような不気味さに智朗は怯む。

 男が立ち上がり、智朗はポケットを探る。

 男は伝票をひらつかせる。

「いい。ガキは奢られてりゃいいんだ」

「客をガキ扱いすんな」

「ガキはガキだ、未成年くん。ほら」

 男は万札を一枚差し出した。

「なん……」

手向(たむ)け、(はなむけ)、なんでもいいやな」

「なんですか、わけわかんねー」

「やるんなら頑張れ」

「なにを」

「仇討ちだよ。まぁ、あと一年待たなきゃなんねーがな」

 男は去り、残された智朗はつぶやく。

「仇討ち……」

 映画や漫画の世界の言葉だと思っていた。

 応えに窮した。『誰がそんなことするか』『人殺しなんかするか』――そう否定できない今の自分に戸惑った。


(とにかくお母さんには黙っていよう)

 母は憔悴している。例え真実だとしても、これを知って気が楽になりはしないだろう。


 一人で抱え込むと決めた秘密を智朗は持て余した。

(確かめてやる)

 あくる日、居ても立ってもいられずに電車で横須賀に向かった。

 キャップにTシャツ、ジーンズ。母がうるさいので家を出るときに付けていた未満章はボディバッグにしまった。未満章を付けることで公殺法を受け入れているような気がして、あまり良い気分ではない。

 端の席で隠れるようにして小さく畳んだ報告書のコピーを読む。今井靖男の写真はもちろん、経歴、現在の住まいまで記載されていた。

 迷彩服姿の写真を見る。いかつい顔だ。威圧するような細く鋭い目と太い眉は、あの晩の男のそれと同じに思えた。

 横須賀市、久里浜の駅に到着した。そこは自分が暮らす町と大差のない昔ながらといった風情ののどかな町だった。

 ネットから印刷した地図を頼りに歩き出す。

 駅舎を出てロータリーから左へ歩くとすぐに護岸された幅広な川が目の前に現れた。川沿いの道を右へ行く。

 時刻は昼近く。ほぼ真上で太陽が暴力的に輝いている。キャップの下がたちまち蒸れて、取っては団扇代わりにしてまた被り、を繰り返す。

(海のそばって蝉いないのかな)

 蝉の声は聞こえない。今年は蝉の姿をほとんど見ない。吠えてる声も聞こえない。理由は偉い学者にもわからないのだという。

 道の果てにある久里浜湾からの潮の匂いを嗅ぎながら五分ほど歩くと、川のむこうに陸上自衛隊・久里浜駐屯地が見えてきた。

 駐屯地に通じる橋は一本きり。車道を挟んで橋のほぼ正面にバスの停留所がある。

 バス待ちを装ってベンチに腰を下ろし、智朗は駐屯地を眺めた。

 敷地にはぐるりと金網が立っているが、その向こうは木々と白い建物が見える。イメージしていた威圧感や物々しさは全くなかった。

 淡い水色の橋はところどころ錆びが浮き、渡った先に守衛所らしき小屋が見えた。

『ちょっと中を見学させてください』

 行って頼んだところで入れてもらえるわけがない。

『こちらにお勤めの今井靖男に父親を殺された者ですが、面会をお願いします』

 これで取り継いでもらえるはずもないだろう。

 そもそも自衛隊の勤務形態もよく分からない。今あそこに今井靖男がいるかどうかも定かではない。そこまで知りたければまた情報を買えということか。

 来たはいいが、できることがない。

 智朗は久里浜駅へ戻ると鈍行電車に乗り、数駅先の町に向かった。そこに今井靖男が妻と暮らしているはずだ。


 くたびれたように静かな町だった。蝉も鳴かない夏の、平日の昼間。人通りもほとんどない。

 すぐに目的のアパートは見つかった。一階が焼き肉屋になっているのでわかりやすい。

 店の出入り口の真上にある二階の一室で、カーテンが閉められるのが目に入った。

 まさか自分に気づいたのだろうか――智朗はとっさにアパートの裏に回った。外階段の裏に空のビール瓶が詰まった樹脂箱やダンボールが積まれていて、その影に身を潜める。

 頭上で扉が開く音がした。二人分の足音。そして扉が閉まる音。

 身を固くして息を殺す智朗の耳に、男の声が降ってきた。

「なんだよチクショー」

 それは、あの晩に玄関で聞いた声と言葉だった。

 智朗の心臓が人生で一番の強さで()ぜる。

「ヤスさん、また鍵忘れたの?」からかう女の声。

「杏子が急かすからだろ」

 男が鍵を取って戻ってくる慌ただしい気配がする。

「そんなに動いて、具合はいいの?」

「大丈夫」

「買い物なんて一人で行けるから寝てていいのに」

「だめだ。物騒だから」

「体調不良で休んでるくせに。村上さんに言いつけるよ?」

「……好きにすれば」

 面白がる女とやや不機嫌そうな男。二人が階段を下りてくる。

 ビール箱に隠れて、蹴り込み板のない階段の裏から様子を窺う。踏み板を鳴らしてふたつの足音が下りてくる。

 先に階段を下りきった男が、途中で足を止めた女を見上げる。

 踏み板と踏み板の隙間からちょうど男の目の周りだけが見えた。

(アイツだ!)

 智朗は確信した。

 あの双眸は、父を殺した男の目出し帽から覗いていたものだ。

「どうした?」

「ポイントカード忘れたかも」

「今日はもういいだろ。そんなに買うわけじゃないし」

 歩き出す男・今井靖男を、妻・杏子があわてて追いかける。

 智朗は胸を抑えた。心臓に殺されてしまうのではないかと思うほど、心臓が暴れている。

 震える手でボディバッグの中をまさぐる。底に一丁のナイフが沈んでいる。ギターを傷つけたあの男のナイフだ。

 タオルにくるんだそれを掴み出して額に当てる。

「たすけて」

 祈った相手は父だった。どう助けてほしいのか考える前に、智朗は階段裏から出ていった。

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