32 第九章 松川智朗
店をあとにした智朗は、帰路を歩きながら明日美のことを考えた。
(きれいになってたなぁ……)
庭で二年ぶりに直に対面したとき、見惚れかけた。
ほっそりした面差しにまず驚いた。以前はもっと丸みを帯びていた。
体つきも変わった。ゆったりとしたチュニック姿だったが、それでもスタイルがよくなったのはわかる。昔は部屋を明るくしていると、「太ってるから」と服を脱ごうとはしなかったのを思いだす。
自分も背が伸びてしまったので比較しづらいが、明日美も背が伸びていたように思う。
見違えるほど人が変わってしまうのに、十代の二年間は充分だと思い知る。
それでも、明日美は明日美だった。
対人関係にも学校行事にも消極的で億劫がることの多い智朗。面倒な彼の手を引いて輪のなかへと突入していく――そんな明るさとマイペースさも相変わらずのようだ。
しかし智朗は明日美の様子に違和感を覚えてもいた。智朗には正体の見えない屈託を抱えて無理をしているように見えた。
明日美にもなにかあったのかもしれない。気がかりだが、智朗にはどうすることもできない。もう明日美の恋人ではいられない。時間もない。
「あいつ、ひいたかな」
今しがたの明日美の様子を思いだして、覚悟していたとはいえ智朗はやはり落ち込み、胸が痛んだ。
厚意を無下にして傷つけてしまった。彼女にはなんの非もないというのに。
不幸を盾にして自分勝手に彼女を振り回したと自覚しているだけに智朗も懊悩した。
今からでも――。
足が止まりかける。
頬を平手で張って戒める。これでいい。もう自分に明日美は関わってはいけない。
歩調を早める。
(シャンプーと石鹸、買っといてよかったな)
朝の偵察の帰りに石鹸とシャンプーを買った。
今さら見た目などどうでもいいと思っていたが、無頓着が過ぎると悪目立ちしてしまうと今朝の電車で学んだ。下手をすると計画が台無しになってしまう。
きちんと体と髪を洗い、いくらか洗濯もした。
そんなつもりはなかったが、おかげで最後にましな格好で明日美と顔を合わせることができた。
「これでシャバに未練はねーぜ」
映画かなにかで聞いたセリフで粋がると、空を仰ぐ。
中天を過ぎても太陽はまだまだ無言で燃え盛っていた。
「マジで蝉吠えねーな」
耳が物足りない。
この辺りは山がちな田舎だ。緑も多く、夏に蝉の声など当たり前に響いていた。
今歩いているのは田畑ばかりの田舎道。クリークに沿って木も結構な数が生えているが、どこにも蝉はいないようだ。
蝉の声が聞こえない夏はやはり寂しかった。
幼い智朗は蝉が嫌いだった。怖かったといってもいい。
見た目のグロテスクさもさることながら、小さな体に不釣合いな大音声が不気味でならなかった。サイレンのようで耳を塞ぎたくなる。耳を澄ませて愛でる鳥や秋の虫の鳴き声とは違う。
『あれは鳴いているんじゃない。吠えてるんだ』
子供心ながらにそんな風に考えていた。
小学二年生の秋、智朗は漢字のテストである問題を空欄で提出した。
セミが○いている――丸の箇所に『鳴』と書けば正解だ。
「『鳴』くって字、知らなかったのか?」
智朗は首を振る。
「それじゃ、なんで書かなかったんだ? それで満点だったのに」
「どうしても言わないの」
母は心配気だ。
智朗は後悔していた。よけいなことを考えずにわかりきっていた正解を書いておけばよかった。
でも蝉は吠えるのだ。サイレンのように吠えるのに。
「智朗、教えてくれよぉ」
うつむいた視線の先に父の笑顔が入りこんできた。指先で智朗の脇腹をくすぐる。
少しだけほぐれた智朗は、思いきって口を開く。
「あのね……」
「うん?」
「セミは鳴いてるんじゃなくて、ほえてると思ったから」
「ほえる?」
「うん……」
智朗はおずおずと父の反応を待った。
蝉は鳴くものだ――そう怒られるだろうか。それとも笑われるだろうか。
しかし、父はもっと笑顔になった。
「そっかそっか! すごいぞ智朗! 詩人! うん、お母さんの血だなこれは」
智朗の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
「なによ、『本の虫、本の虫』ってばかにしてたクセに」
そう言いつつ、母も嬉しそうだ。
思いがけない両親の喜びように智朗はあっけにとられた。
そして正解でない答えを出した自分を誉めてくれる両親にこれまで以上の愛情を覚えた。
それからも納得のいかない答えを強いてくるテストの問題や教師に遭遇した。智朗はそこで無理につっぱったりせずに周りに合わせた答えができるようになった。
面倒を避けるためではない。
自分には感じ方や考えを尊重してくれる人たちがいる――それを知ったからだ。
あくる年の夏、また蝉の声が聞こえ始めた。去年ほど怖いと思わなかった。
「吠えてるなー。ギターみたいだなー」
嬉しそうに父がつぶやいた。
「ギターってこんな音するの?」
思えば智朗がギターに、音楽に興味を抱いたきっかけはこれだったような気がする。
明日美との対面の余韻が智朗の記憶を刺激していた。
話さずにいた部分も思い出す。
父の葬儀がひと段落し、夏休みも終わりが迫ってきた頃のこと。
母・香織と智朗は玄関の門柱の裏に花瓶を据えると、そこに花を差した。
自分が育てた花を供える母の胸中を思うと、智朗も薄い胸をかきむしりたくなる。
手を合わせて家のなかへ戻ろうとした時、視界の端でなにかが一瞬きらめいた。
近づくと、鉢棚の影にナイフが落ちていた。
「あっ……」
ギターケースに刺さっていたナイフだ。
あの晩、動転していた智朗はケースに刺さっているナイフを引き抜いて投げ捨ててしまった。父からのプレゼントが傷つけられているのが我慢ならなかったからだ。
それからは救急車を呼んだり警察がやってきたりで、このナイフのことを忘れていた。
辺りを見回す。母は先になかへ戻っている。誰も見ていない。
智朗はナイフを拾い上げると、こっそりと部屋へ持ち込んだ、
あの晩にやってきた警察は「おそらく公殺でしょう。それらしき自首もあったようです」と前置きして、智朗や母の話を簡単に聞くだけでろくに現場を検めもしなかった。
そのせいで以前なら重要な証拠品として警察で管理されたはずのナイフが、今智朗の手に握られている。
智朗はナイフに手の平を添える。刃渡りは中指の先から手首ほどもある。
血はついていない。ギターケースが盾になってくれたのだろう。しかしあの男はこれを抜くことなく二本目のナイフで父を殺した。
準備万端、用意周到、手慣れてる――こういった言葉が浮かんでくる。
本当にあの老人が父を殺したのか。疑念は深くなる。
ケースからギターを取り出す。
ナイフはケースを貫いてギターにまで穴を開けていた。
ギターのボディを人間の体とするなら、奇しくも心臓の位置にナイフの傷は残っていた。
あの男は、父の心臓にもナイフを刺した。
ギターの傷にナイフの切っ先を入れてみる。木と金属がこすれて止まる。抜く。
なにかに憑かれたようにそれを繰り返すうちに、智朗の裡でぶつける先のない憎悪が大きくなっていった。
あくる日のこと、情報提供会社を名乗る男が家にやってきた。
外出から帰ってきた母を玄関先で捕まえて声をかけてくる。
「主人を殺した人のことは警察から聞いていますから。それにその人はもう亡くなってます」
取り合おうとしない母の背中に男は食い下がる。
「本当は違う人が殺したんだとしたら?」
母は肩を跳ね上げ、ゆっくりと振り返った。
「関係ありません。帰ってください」
母はきっぱりと返し、家のなかへ入っていく。
偶然に物陰からそのやり取りを目撃した智朗は、舌打ちして去っていく男を追う。そして家から離れたところで声をかけた。
未成年には売れないと正論でもったいつける男におそらくは相場以上の額を払って情報を買った。エレキギターを買うための貯金から払った。
資料によると、父を殺したのは今井靖男という男だった。
誤字脱字や表現の修正だけのつもりが、ついついアレコレ手を加えてしまってドツボにハマッていってます。
難しいものですね。




