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吠えない蝉  作者: 野間義之
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30 第八章 二〇一一年八月十六日

 一年前。

 二〇一一年八月十六日は(とも)(ろう)の十七歳の誕生日だった。

 いつもは帰宅が遅い父を待たずに母と二人で先に夕飯をすませる。しかし今夜は特別だ。父の帰りを待つ。

 食卓には智朗の好物ばかりが並び、ケーキまで手作りされていた。

「もうガキじゃないんだから、ここまでしてくれなくてもいいって」

 いまだ反抗期に突入しきれずにいる智朗は照れた顔で面倒くさがってみせる。

 時刻は八時半を回った。

 父は九時には帰れると連絡してきたので、もうすぐだ。

 もっと子供に戻ったようなうきうきした気分で父の帰りを待つ。

 父と密かに約束していた。今年の誕生日にアコースティックギターをプレゼントしてもらうと。

 高校入学の祝いにパソコンを買ってもらったからと断ったが――

「ギター、たまに貸してくれ」

 父はそう笑って智朗の負い目を軽くしてくれた。

 もちろん他にも『テストは平均点以上』『母の家事手伝い』『目立ち始めた父の白髪を抜く』等、父との約束事をこの半年以上守ってきたし、これからも守るつもりだ。

 来年受験生になる智朗にギターを与えたら音楽熱が上がるばかりだと母が反対するのは目に見えていた。だから男二人だけでこっそり楽器屋へ行き、選んできた。

 今夜それを父が引き取って帰ってくる。父子で母に大目玉を食らうだろう。覚悟の上の作戦だ。

 外から物音が聞こえた。

「お父さん、帰ってきたみたいね」

「鍵開けてくる」

 智朗はいそいそと玄関にむかい、扉を開く。

「なんだよ、チクショー」知らない男の焦った声と、

「おかえりー」止まらなかった智朗の声が重なる。

 ぐわん、とギターが揺れるくぐもった音。

「お父さん?」

 智朗は、予想もしなかった光景を見た。

 玄関の灯りが薄らと届く門柱の足元に父が倒れていた。

 白のワイシャツが赤黒く染まっている。血にしか見えない。

 父の傍らに誰かが屈みこんでいる。全身黒づくめで、映画でよく見る、目の部分がくり抜かれたマスクをかぶっている。

 智朗は悲鳴を上げた。驚きや混乱や恐怖で体は全く動かなかったが、悲鳴だけは爆発した。

 男は逃げていく。

 後ろから母の悲鳴が聞こえた。それがきっかけで、金縛りが解けたように智朗の体は動いた。

 父に駆け寄る。母とともに呼びかけて体を揺するが、ぶら下がった頭が揺れるばかりでなんの反応も帰ってこなかった。もう死んでいた。

 それでも救急車を呼ぼうと立ちあがった智朗は足を取られて転ぶ。

 ギターケースだった。さっきの男の仕業だろう、ナイフが突き刺さっていた。




 通夜の晩、刑事がやってきた。

 母と智朗、刑事が向き合って飯台に着く。

 手伝いにきていた親戚や近所の面々は気を遣って席を外した。

「ご主人を、その、いわゆる公殺した人物の資料です」

 刑事は茶色い紐付き封筒を差しだしてきた。

 母が中身を(あらた)める。顔写真付きの履歴書のようなものも含めて数枚の書類が入っていた。

 母はそれをすぐに裏返して伏せた。智朗が手を伸ばすと、母は手を置いて邪魔をする。

「見せて! 見せろって!」

 もみ合いの末、母から書類を奪い取る。

 刑事はなにもせずに黙っていた。

 智朗の目に写真の男はひどく年寄りに見えた。白髪頭に、皺と染みが目立つ肌。資料には六十二歳とある。顔も名前も智朗はまったく覚えがなかった。

「誰なんですか、この人?」と母も刑事に訊ねた。

「ご主人の取り引き相手といえばいいのでしょうか……ご主人が銀行で中小企業や個人事業者向けの融資審査を担当されていたことはご存じですか?」

「はい」

「その男性は会社を経営していたのですが、ご主人の銀行から貸し剥がしに遭って会社が倒産ということに……」

「そんな理由ですか……」

 母は俯いた。

「どういうこと? 意味わかんねーよ」

「お父さんと銀行は、早くお金を回収しないと、返してもらう前にその人の会社は潰れてしまうって判断したのよ。だから貸していたお金を予定より早く返してもらったの。でもそれでその人の会社はだめになって、お父さんは恨まれたのよ。そうですね?」

 刑事は頷いた。

「コイツの会社はもともとヤバかったんだろ? お父さんのしたコトは間違ってなかったんだろ? 銀行も認めたんだろ? なんでお父さんが恨まれなきゃいけないんだよ!」

 智朗は悔しさで飯台にしがみつき、何度も何度も額を叩き付け、体をこすりつけて身悶えた。

「それで、この人はどうなるんですか?」と母が尋ねた。

「どうもなりません。日本國国民が有する権利を行使しただけですから」

「警察はそれでいいんですか!」

 母が初めて声を荒げた。

 刑事は口の端を噛みしめている。

「答えなさい! 貴方はそれでいいんですか!?」

 智朗が初めて聞く、母の金切り声。

「我々にはどうすることもできません。私に言えるのは、奥さんにも同じ権利があり、そして時がくればお子さんにもその権利は与えられるということだけです」

 刑事が口重に発した言葉は、苦々しく、黒い教唆の響きを帯びていた。

 智朗が尋ねる。「コイツは今どこにいるんですか?」

「住所は、そこに書かれている」

「逮捕は?」

「だから、犯罪者じゃないから逮捕はできないんだ」

 しかし写真を見れば見るほど智朗は納得がいかない。

「マジでコイツなんですか?」写真を指差して確認する。「オレが見たのはこんなヤツじゃなかったような気がする」

「君は相手の顔を見たの?」

「目だけ、だけど」

「それなら別人だなんて断言できないだろう」

「こんな年寄りの目じゃなかった。皺なんてなかったし、眉だってこんなに白くなかった」

「暗かったんだろう?」

「でも! でも……いくら父さんが大人しいからって、こんなジジイに負けるわけない!」

「ケンカじゃないんだ。物影に隠れてナイフで襲いかかるなんて誰にでもできるし、そうなったら年齢や力は関係ないんだ。そういうケースは昔からいくつも見てきた」

 まるで遺族の疑問を想定していたように、刑事は即座に否定してくる。

 それでも、あの男とこの男が、智朗のなかでどうしてもきれいに重ならない。

 刑事が去ると、母は智朗から資料を取りあげた。

 力ずくの抵抗もできたが、泣く母に逆らうことはできなかった。

 母が資料の男を殺すことはないだろう。

 どんなことであっても暴力で解決してはいけない――それは父と母の共通の理念だ。息子はよく知っているし、共感していた。共感していたが。

 智朗は自室へ駆け込み、覚えている限りの内容をノートに書き留める。血が上った頭は思ったほど覚えていなかった。頭を殴りながら拾い集めるように単語を赤く刻んでいく。

 どうにか名前と住所だけは記憶していた。

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