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吠えない蝉  作者: 野間義之
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 午後七時過ぎ。

 今井(いまい)靖男(やすお)は小田急線・高座(こうざ)渋谷(しぶや)駅を出て、家路を歩いている。

 妻・杏子(きょうこ)と暮らすアパートまで徒歩十分。その間に伊達眼鏡を外して鞄にしまう。

 神奈川県藤沢市の工業地帯で働き始めて数ヶ月が経った。

 スーツを着て一日中事務所でパソコンを操作して伝票を整理する生活にはいまだに馴染めない。夕方の定時には終了できず、サービス残業や休日出勤も多い。

 投げ出してしまいたいが、事情を知る元上官が個人的に紹介してくれた会社だった。縁故採用では簡単に逃げることもできない。

 再就職に伴い、横須賀から神奈川県大和市のこの町へ越してきた。

 会社の最寄り駅から小田急線でふた駅。通勤時間を考えれば恵まれているが、靖男はこの町に住むことに気乗りしていなかった。

 大和市といっても、南へ二十分も歩けば隣の藤沢市だ。その辺りは梨や葡萄の栽培が盛んな山がちでのどかな町だ。しかし訳あって靖男はそこから少しでも遠ざかりたかった。

 三十歳も近いというのに次の職のあてもなく自衛隊を辞めた靖男についてきてくれた妻の杏子には感謝している。その杏子が身重な体でこの町の物件を探してくれたのだ。理由も話さずに反対することはできなかった。

 そこでその町付近を通過する電車に乗っている間だけでも伊達眼鏡をかけることにした。せめてもの変装だ。

 高座渋谷駅の周辺は、新しい一戸建てやアパート・マンションが集まったベッドタウンだ。ここ十年ほどの間に急速に開発が進んだのだと不動産屋から聞いている。

 『カーサ・デ・ソル』は一階二世帯・二階二世帯のアパートで、二階の二〇一号室が靖男と杏子の住まいだ。

 3LDKに二人で暮らすのは贅沢に思えたが、杏子のお腹には待望の第一子が宿っている。出産予定日は十月九日。将来の子供部屋のことも考えて杏子がここを選んだのだ。

 大丈夫だ。自分が復讐されることなんてありえない。それに法に触れることをしたわけでもない。堂々としていていいんだ。この町で暮らして、やがて子供が生まれて、俺は幸せになれる。立派な父親になってみせる。

 帰りしな、こうして我が家を見上げるたびに、自分に言い聞かせる。

 そのおかげか、最近ではこれが子供の頃から憧れていた光景なのだと思えるようになってきた。

 しかし、隣の部屋の住人が靖男の幸福感に水を差す。水商売の女。今日もカーテンも閉めず、恥ずかしげもなく着替えをしている。

「露出狂のヤリマンが」

 靖男はついつい毒づく。

 引っ越してきた当時、四世帯のうちで入居しているのは靖男たちだけだった。

 こんな物騒なご時世だ。ちょっとしたご近所のトラブルも殺される原因になりかねない。アパートやマンションなどの集合住宅は人気薄になってしまったと不動産屋が嘆いていた。

 周りが空き部屋というのは気遣いが不要な反面、やはり心細い。そこへ誰かが越してくると知って、ちゃんとした人だとありがたいと期待していた。

 それなのにやってきたのは、だらしない水商売女だ。家族向けの物件に一人暮らしというのも気に入らない。

 名前は早川琴美。親しくしている杏子によると、二十七歳だという。気の強そうな顔立ちがショートヘアと相まって凛とした印象を与える美人だ。

 そんな若い美女が惜しげもなく下着姿や全裸、ときには連れ込んだ男との情事さえ披露している。

 その痴態を目にするたび、肉欲が湧く。

 歩調を緩めて琴美の着替えに目を奪われる靖男。

 赤のドレスを着終えたところで、彼女の視線が外へと向いた。

 靖男はあわてて目を逸らす。開けっぴろげに見せているのだ。こっちが非難される筋合いはない。それでも堂々と開き直れるほど靖男の肝は据わってはいない。足早にアパートの外階段を上がり、鍵を開けて玄関に入る。

「ただいま」

「おかえりー」

 杏子の返事と隣の玄関が開く音が重なった。

 危ないところだった。顔を合わせたらさすがに気まずい。

 むこうもそう考えて出るタイミングを計っていたのかもしれない。

「来なくていいって」

 大きなおなかでわざわざ玄関にやってきた杏子に靖男は言う。毎日のことだ。

「あれ? 琴美さん、今出勤?」

 杏子が外階段を下りる足音に気づいた。

「みたいだな」

「今日は遅いねー」

「ふーん、そうなんだ」

 靖男は興味なさそうに相槌を打った。

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