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吠えない蝉  作者: 野間義之
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28

 午後二時過ぎ。

 明日(あす)()は自転車を下りて、ずかずかと松川邸の庭に入っていった。

 洗濯物が干してある。この数日間で初めて目にする生活の証だった。

 しかしそれが在宅の証とは限らない。空は今日も青く世界をあぶっている。雨の心配をするのは馬鹿馬鹿しく思える。

 耳を澄ましてみるが、なんの物音も聞こえてこない。

「いないとか……」

 だとしたらこれからやることは相当に間抜けだ。それでも試してみるしかない。

 担いできたソフトケースから象を模したアンプ内蔵のミニギターを取り出し、肩にかけた。

 スイッチを入れる。ブゥン、と低くスピーカーが唸る。

 左手で慎重に最初のコードを抑える。

 大きく息を吸い――

「せーのっ!」

 ピックをつまんだ右手を振り下ろした。



 耳から、目が覚めた。

 蝉の声か――(とも)(ろう)はまた寝ようと寝返りを打った。

「蝉?」

 去年から蝉が鳴かなくなったことを寝ぼけた頭で思いだし、耳をそばだてる。

 雨戸越しに聞こえるそれがエレキギターの音だとわかって智朗は体を起こす。

 時計を見ると午後二時十分。

 昨夜から眠れぬまま、朝になってようやく仇が逃げていないことを確認した。

 家に帰って諸々のことを済ませて横になったのは十一時前だった。

「なに……」

 三時間で起こされ、不機嫌になる。

 町内会の催しかなにかだろうか。近所づきあいなど絶えて久しいのでそんな催しの有無さえわからない。

 しかし、いくら夏休みとはいえ昼日中にそんなことをするだろうか。しかもこんな山がちな辺鄙な場所で。

 おまけに聞こえるのはギターの音だけだ。

 Em、Fのコードが小気味よいスタッカートで繰り返される。知っている。ザ・クラッシュの――

「“ロンドン・コーリング”?」

 智朗は窓に近づく。

 ギターの音色はチープでザラザラとしている。アンプ内蔵のギターだろう。驚くことにすぐ下から聞こえる。この家の庭で、誰かがギターを弾いている。

 雨戸をそっと少し開けて、隙間から庭を覗く。

 謎のギタリストはギターのネックばかり見ていて上から顔は分からない。長めのボブカット。チュニックのオレンジとギターの青が目に刺激的だ。

 我が家の庭でギターを鳴らすような女子に、心当たりは一人しかいない。

「明日美」

 彼女は雑草生い茂る庭に仁王立ちでミニギターを弾いている。左手の運指にばかり気を取られていて、こっちを見上げる余裕などなさそうだ。

「なにやってんだ、アイツ……」

 ぽかんとなる智朗。指が自然とサッシを叩いてリズムを取る。

 いつまでもイントロ四小節のコード演奏が繰り返される。

「歌わないのか!」

 わけがわからない上にとんだ肩すかしだ。

 智朗は一階へと駆け下りていった。


 

 明日美にとって楽器演奏など小学校でのたて笛以来、一人での演奏となるとこれが人生初だ。しかもギターは父がいじるのを見るばかりで触ったこともほとんどない。初心者も初心者だ。

 気はずかしくてたまらない。

 それでも“ロンドン・コーリング”のイントロを弾き続ける。

 好き好んで延々と繰り返しているのではない。昨夜、父に教えてもらい、一夜漬けでこのイントロだけは合格点をもらった。

 しかしこの先、弾きながら歌うのは自信がない。

 さっき背後の塀のむこうを誰かが通りがかり、こっちを見ていく気配を感じた。

 このままでは人が集まってきてもっとはずかしいことになるかもしれない。

(はやく出てきてー!)

 弦を押さえる左の運指に精いっぱいで、窓を見上げる余裕もない。

 しかたがない。明日美は覚悟を決めて、イントロから次に進んだ。

 しかし歌い出しの"London"すら終わらぬうちに指が止まり、歌も途絶えた。

 見上げるが、期待したような変化はなにもない。

「もういっかい!……」

 弾き直そうとすると、玄関の扉が開いた。

「なにやってんだ城戸」

 Tシャツに短パン、サンダルという恰好の男子がこっちを見ていた。

「智朗くん?」

「おう」

 明日美はやっと姿を現した智朗を見やる。

 見知った彼と少し印象が違っていた。

(背、伸びた?)

 遠目に気づく最初の変化はそれだった。

 明日美と親しくなってマメに手入れするようになっていたクセっ毛も、無造作に伸び放題で絡まっている。

 智朗に会えたら、まずはハグしてやろうと企んでいた。ムード次第ではキスしてもいい。

 しかし智朗の様子は、そんなはしゃいだ振る舞いをためらわせる固さと薄暗さを帯びていた。

「ひさしぶり」

「ああ」

「暑いね」

「ん、ああ」

 智朗は近づいてこようとしない。応答もいい加減だ。声をかけられた猫が面倒くさそうに振る尻尾に似ている。

 焦れた明日美が近づこうとすると、智朗が手で止めた。

「元気にし……」

「ちょっと待ってて。着替えたい」

 智朗は駅のロータリーに面したファストフードショップで三十分後にと提案した。

「智朗くん()でいいよ」

「オレしかいないし」

 智朗はさっさと中に戻ってしまった。

 ようやく本当に再会できたというのに、あまりに素気ない。離れてからの二年間、とくに音信不通になってからのこの一年というもの、再会の場面を何十通り想像してきたことか。

 明日美は泣きたくなった。自分だけが盛り上がっているのだろうか。

「『オレしかいないし』」真似る明日美。すると腹が立った。「何度も連れ込んだクセによく言う!」

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