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吠えない蝉  作者: 野間義之
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27 第七章 八月十一日

 カレンダーの八月十日をバツでつぶす。

 あと五日だ。

 智朗は不安で落ち着かず、眠れぬまま朝を迎えた。


 昨夜の偵察で(かたき)の姿を確認することができなかった。

 会社勤めならば帰りが遅い日だってある。父もそうだった。頭ではわかっているが、それでも泰然と構えることができない。決行の日が近づけば近づくほど、些細なことが失敗の前兆のように思えてならない。


 今朝も仇のアパートまで走るつもりだったが、徹夜明けで億劫になってしまった。

(電車にしよう)

 土曜日の朝七時前。座席は充分に空いている。たったひと駅だが座ることにした。

 すると、傍の若い女性がすぐに立ち上がって離れていった。

 もしかして、と智朗は自分の袖に鼻を近づける。

(ああ、オレが臭かったのか)

 女性は控えめに、不安げに振り返る。智朗と目が合いかけて、あわてて顔を前に戻して車両を移っていった。

 他人をどういう目で見ているのだ、と智朗は不愉快になる。

「殺すかよ」

 智朗の独り言に、むかいの還暦近い男がぎょっとした顔を向けて、すぐに俯いた。

(どいつもこいつも……)

 鼻でためいきをつき、智朗はまた袖の臭いをかいでみた。粘土に埃と酢を混ぜたような臭いだ。ホームレスを連想する。

 出がけにたまたま足元にあったので着てきたが、どうも脱ぎ散らかしたまま長いこと放置されていたようだ。そもそも脱ぐ前に一体何日着たきりでいたのやら、だ。

 ジーンズもいつ洗濯したか思いだせない。腿や膝がロウを塗ったように脂光りしている。

 夏なので肌が不快になればシャワーを浴びるがそれも気分次第だ。シャンプーは自分用、父用、母用の順に使い切り、石鹸も切らしたままなので髪はつねに脂っぽい。毛先を鼻に近づけてみると、シャツとあまり変わらない臭いがした。

(まじで鼻つまみ者、オレ。明日美が見たらドン引きだろうな)

 扉越しにもう来るなと伝えたが、いっそこのこ汚いナリを見せてやればよかったのではないか。そうすれば、イギリス帰りのこ洒落たロンドン娘は自分に興味などなくしてくれただろう。懲りもせずにさらに三日も通って来ることもなかったはずだ。

(でもなー)

 やはり幻滅されてサヨナラというのは辛かったかもしれない。

 どのみち、もう明日美はやって来ないだろう。

 昨日は来なかった。その前日には雨戸に石まで投げつけていった。愛想が尽きたにちがいない。

 これでいい、と自分を納得させる。

(もうすぐオレは犯罪者か死人になるから)



 高座(こうざ)渋谷(しぶや)駅を出た智朗は仇の住処(すみか)を見上げるコンビニそばの木の影に立った。

 去年の八月十六日の晩に父を殺したその悪魔は『カーサ・デ・ソル』――太陽の家という名のアパートの二〇一号室で妻と二人でぬけぬけと幸福に暮らしている。しかももうすぐ子供まで産まれるようだ。

 人殺しのくせに何食わぬ顔で毎朝会社に通い、夜に帰ってくる。

 智朗は可能な限り朝晩に、この住処と高座渋谷駅を行き来する仇の様子をうかがっていた。

 これを智朗自身は心中で『偵察』と位置付けていた。

 もし誰かに話せば失笑されそうな仰々しさだが、智朗にとっては(うち)に籠り心に噛みつき続ける暗い感情を発散するために今できる数少ない行動のひとつだった。


 昨夜も駅で待ち伏せていたが、いつまでたっても帰ってこない。

 遅くても夜の九時には帰ってくる仇が、昨夜は十時半を過ぎても帰ってこなかった。

(もしかして気付かれたのだろうか)

 だとしたら最悪だ。姿をくらまされたかもしれない。

 焦って住処へ向かうと部屋の灯りはついている。

 これまでも偵察が毎回うまくいったわけではない。ときには見逃したり、待ちきれずに帰ったこともある。

 しかし決行日が近づいている今、少なくとも逃げたわけではないと確認しておきたかった。

 智朗は辺りに人がいないことを確かめるとスニーカーを脱いでそっとアパートの外階段を上がった。仇の部屋の呼び鈴を鳴らすと、すぐさま階段を駆け降りて物影に身を隠す。

 扉が開き、仇の妻が腹を突きだして姿を見せた。そのまま外に出てきて辺りを見回す。

「ヤスさん? ことみさん?」

(バカかよ……)

 憎い仇の妻だが、心配になるほどの不用心さだった。

 妻が首を傾げて部屋へ戻ると、智朗はアパートを離れた。

 まだ仇は帰っていないようだが、姿をくらませたわけではなさそうだ。


 そして今朝改めて偵察に来た。土曜日だが出勤することも幾度かあったので平日と同じ時間に来てみた。

 コンビニに入り、立ち読みをする振りをしてしばらく見張っていると、仇が車道のむこうを駅に向かって歩いていくのが見えた。平日同様にスーツ姿だ。

 夜よりも朝の尾行は神経を使う。

 それでも智朗はすっかり慣れていた。さりげなく物影から物影を伝い、つかず離れずに仇の背中を追う。

 やがて仇は駅へと続く目抜き通りに入る。ここまでくれば人通りは増えるが、まっすぐに伸びた道なのでかなり距離を取っても見失うことはない。

 靖男はそのまま振り向きもせずに駅舎に入っていった。

「よし」

 仇はちゃんと手の届く場所にいる。智朗は暗い高揚感に口角を上げ、拳を握った。

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