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吠えない蝉  作者: 野間義之
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25 第六章 八月十日 その二

 夜の藤沢の街。

 吐いて酔いは楽になった。

 靖男は靴だけでなく、鞄も忘れてきたことにようやく気づいた。

 覚悟して先ほどの居酒屋に戻ると、もう村上の姿はなかった。

 靖男に気づいた店員が鞄と靴を持ってきてくれた。支払は村上が済ませて帰ったという。

 騒いで迷惑をかけたこと、スリッパをだめにしたことを詫びて店を後にする。

 汚れた靴下を脱ぎ捨てて靴に素足を入れる。

 村上は靖男の忘れ物に気づかなかったのか、それとも気づいていて放っておいてくれたのか。

 村上に謝罪すべきか迷いながらの駅への道々で、いかがわしい店の客引きたちに次々と声をかけられる。

「どうですか? いいコいますよ。みんな『(ふだ)()し』だから安心ですよ」

 そんな誘い口上に、つい足を止めてしまう。

「『札無し』ってことは、もう人を殺しちゃってるってことだろ? そんな女おっかないよ」

 靖男が軽い調子で返すと、客引きは陽気に腰を前後に振って見せる。

「大丈夫ですよ社長。ついカッとなって()っちゃっただけで、普段はいいコばっかりなんですからー。今度は自分が殺られちゃうんじゃないかって怖がっちゃって震えてますよー。ここは社長がヤッちゃってあげないとー」男はさらに小声でささやく。「だから、ほら、ちょっとぐらい手荒なコトもね。お客さん、そういうの嫌いじゃないでしょ?」

 ついていけず、靖男はためいきを残して離れた。

「なんだよチクショー……なんなんだこの国は」

 自衛隊ですら、狂気の法を生み出した総理大臣の走狗へとなり下がった。

 村上とのやりとりを思い出し、また腹が立ってきた。 

(あんなクソ法律がある限り、俺は解放されないのか)疎ましく思う一方でこうも考える。(もし公殺法がなくなったら、俺はどうなる? 犯罪者、なのか?)


 金曜の夜にしては繁華街に活気がないように靖男には感じられた。

 両側に軒を連ねている店舗は、三割ほどが閉店しており、道行く人もまばらだ。客引き以外の女性はまったくいない。

 藤沢の街に詳しいとは言えないが、それでもこの程度の人出で繁華街や歓楽街が成り立つとは思えない。

 先ほどの店はよく客が入っていたものだ。

 『なんだ、弱い酒ばかりだな』と村上がぼやいていたのを思い出す。

「そうか」

 強い酒で悪酔いさせない配慮なのかと靖男は得心する。

 それでも自分のようになる者もいるのだから効果の程は知れていると靖男は自嘲し、憤る。

(これもあのクソ法律のせいだ)

 酒に呑まれると、人は本性以上の醜態を晒してしまうものだ。

 以前ならあくる日の笑い話で済んだことも、今では笑える明日をなくすことになりかねない。

 実際、酒席でのちょっとした口論が高じて普段親しくしている知人・友人を殺してしまい、公殺扱いにしたという話もチラホラと耳にする。

 人を殺せば罪になり、罰せられる――そんなことが自制心の根幹だったのか。日本國国民は明るみに出てしまった自分たちの暗部に慄然とした。

 こうなると外で他人と酒を飲もうという者が減る。巻き添えやトラブルを恐れてアルコールを扱う店も減る。

 気骨あるメディアがそうした現状や人々の本音を報道しても国や自治体はけして認めない。

 いまも昔も、日本國は清く正しく神に守られ輝いているのだ。

 それでもこういった界隈を少し歩くだけで先細りしていく一方なこの国の縮図が見えてくる。

 さっきの腰を振る客引きは、狂った法律の下でも逞しく生きていると言えるのかもしれない。

 しかし靖男はそれをポジティブに捉えることはできなかった。


 早く家に帰りたい。杏子の顔を見て、そのお腹に触れたかった。

 今夜こそ、手を蹴りあげて喝を入れてほしかった。

 杏子にお土産を買って帰ろう。

 そんなことを考えていると、揉め事めいた男女のやりとりが聞こえてきた。

 道の先でスーツの中年男と青いドレスの女が口論していた。男が女の手首を掴み、女が抵抗していた。

「行くぞおい!」

「いや!」

「いいじゃないか」

「ホテルは嫌だって言ってんでしょ!」

「なに言ってるんだ。自分の家に連れ込んで美人局(つつもたせ)でもする気か!」

(商売女にマジになって、みっともない。そのうち店のコワイ兄ちゃんがやってくるだろう)

 関わるまいと距離を取りかけて、靖男は気づいた。女の顔に見覚えがある。隣のあの女――早川琴美だ。

 むこうが靖男に気づいている様子はなかったが、隣人の窮状を見て見ぬフリというのはさすがに気が咎めた。杏子が親しくしていることだし。

「失礼」

 靖男は大股に歩み寄って二人を引き離すと、間に割り込んで琴美を後ろに庇う。

 男は怯えた形相で数歩下がった。背は靖男の胸ほど。小太りで頭頂部が薄くなりかけている。ごくありふれたサラリーマンだ。それでもこのご時世、どこに凶器を忍ばせているかわからないので用心は怠らない。

「お知り合いですか?」

 琴美に訊ねるが、靖男の介入に目を丸くして、口は半開きで固まっている。

「なにか困ってますか!?」

 語気を強くすると、やっと琴美は我に返った。

「うちのお客さんだけど……」

「困ってますかっ?」

「うん」

 靖男は男をにらみつけたものの、次の行動に迷う。事情もわからずしゃしゃり出た挙句に殴り倒すというのはさすがによろしくない。

 相手の出方に応じて対処するしかないと腹を括った矢先に、男は琴美に「もう店には行かないからな!」と捨て台詞を吐いて去っていった。

 靖男は拍子抜けや物足りなさを感じつつ、琴美に向き直る。

「大丈夫ですか?」

「ええ。どうもありがとう。それじゃ」

 ドレスの肩を直し、形ばかりの会釈でさっさと立ち去っていく琴美。

 靖男は「あの、早川さん」とつい呼び止める。

「ごめんなさい、どなたでしたっけ?」

「今井です。隣の……」

 琴美の顔がゆっくりとほころぶ。

「あーっ、杏子さんの旦那さん!」

「はい」

「ごめんなさい。気づかなくって!」

 駆け戻ってきて、改めて頭を下げる琴美に今井は胸の前で手を振る。

「いえいえ。いつも妻がお世話になっています」


 

 靖男と琴美は、会話らしい会話をしたことがなかった。

 たとえば玄関先で鉢合わせしても互いに挨拶と会釈を交わす程度だ。

 杏子と琴美がお喋りに興じていても、靖男は所在なげに離れて立っているだけだ。琴美には窓から覗けてしまう光景や生めかしい騒音などの鬱憤もあってあまり面と向かいたくなかった。

 そんな靖男の態度を察してか、琴美も杏子とだけ喋った。



「本当によかったんですか? あの人」

 今更ながら心配になって確認する。

「大丈夫です。困ってたの。しつこくて」

「あとで怒って怒鳴りこんできたり……」

「平気平気」

「でも今、いろいろヤバイっていうか物騒ですし……」

「あの人、お店じゃ『もう俺は札無しなんだぜ』ってイバってたけど」

「えっ?」

「まぁどうせ嘘だろーけど」

 ハンドバックを振り回して弄ぶ琴美。どうでもよさそうだ。

「嘘だったらマズイんじゃないですか?」

 殺されるかもしれませんよ、と心配する靖男に琴美は笑って答える。

「そんな度胸ないって」

「そうですか?」

「お水やってると人を見る目、鍛えられるわよー。もっと早くこの商売やってればよかったわー。そうすれば人生もっとマシだったかも」

 靖男は「はぁ」と当たり障りのない相槌を打つ。

「今日はこっちで飲んでたの?」

「はい。知り合いと」

「その人は?」

「帰りました」

「ふーん。それで自分は一人で女のコのいるお店に繰り出そうって?」

「いきませんよ。帰ります」

「ふーん。今度お店に来てよ。杏子さんには内緒にしとくから」

 靖男は笑ってごまかす。

「なんて冗談。うちはぼったくりだから絶対来ちゃダメよ」

 靖男は本当に笑った。

「いいんですか、んなこと言って」

「いいのいいの。それにね、ぼったくりでもそうじゃなくても、今井さんは女遊びとかしちゃダメ! 杏子さん泣かしちゃダメ」

 靖男は杏子の気持ちが分かるような気がした。色々ひっかかる箇所もあるが、面と向かってみると琴美の物言いは案外不快ではない。

「お店に戻るんですか?」

「ううん。今日はもういいの。ちょっと早いけど、さっきのと帰ることになってたから」

 ということは、今夜はさっきの男とうちの隣でセックスするつもりだったのか――という呆れを(おもて)に出さないよう用心する靖男。

「今井さんは?」

「帰りますけど」

「じゃ、一緒に帰りましょ」

 駅へと歩きかけた靖男の傍らで、琴美はスマホで早技のようにタクシーを呼んだ。

 かくして二人はタクシーを相乗りして帰ることになった。

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