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吠えない蝉  作者: 野間義之
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(法律で認められているんだ。命令なんだ。これは任務だ)

 靖男は頭の中で延々と繰り返す。

(殺したいほど恨まれるような人間だ。気に病む価値なんかない男に決まっている。そうだ、親父と同じ程度の人間なんだ)

 また靴音が聞こえてきた。穴越しに外灯に照らされた顔を確かめる。間違いない。《標的》だ。

 《標的》が門扉を押して入ってきた。

 素早く音もなく《標的》の背後に回りこみ、脇から入れた左手で口を塞ぐ。右手で逆手持ちしたナイフを《標的》の心臓に突き立てる――村上を練習相手に幾度も反復した一連の動作を体はもう覚えていた。

 ひとたび動き出した体は、頭の中の躊躇や罪の意識とは関係無しに、自動的に(なら)い始める。

 素早く音もなく《標的》の背後に回りこみ、脇から入れた左手で口を塞ぐ――ここまで順調だった。

 しかし、振り下したナイフはなにかに阻まれた。《標的》が手にしていた大きな荷物をとっさに抱えこんで盾にしていた。

 靖男は焦る。普段は小さな手下げ鞄しか持っていない《標的》が、なぜ今日に限ってこんな物を。飾り穴からは上半身しか見えなかったため、気づけなかった。

 ナイフは荷物に食いこんでしまって抜けない。

 靖男はナイフから手を放すと、《標的》から邪魔な荷物をむしり取る。落ちたそれがガランと大きな音を立てて靖男を一層あわてさせる。

 《標的》は口を塞がれたまま、なんとか逃れようともがく。しかし靖男にしてみれば非力な抵抗だ。

 予備のナイフを掴み、今度こそ心臓を突いた。突いた。突いた。三度突いて、念押しに抉って引き抜く。

 《標的》が重くなった。もう動かない。

 血が染み込こんだ袖がぬるく皮膚に張り付く。気色悪い。

 静かに《標的》を横たえて、足元に落ちている問題の荷物に目をやる。

「ギター」

 靖男は音楽や楽器に疎かったがギターのケースぐらいはわかる。ナイフが突き立ったままのそれも小ぶりな死体のようだった。

 銀行マンがどうして会社帰りにこんな物を持っているのか。理解できない。

 ともかく任務を完遂しなくては。遺体のかたわらに跪いて頸動脈を探るが、うまく見つけられない。

「なんだよチクショー!」

 動揺していると、玄関から「おかえりー」と待ちかねたような弾んだ声がした。

 驚いて体勢を崩した拍子に足がギターケースにぶつかり、また音を立ててしまう。

 玄関の扉が開く。

「父さん?」

 顔を向けてしまった。

 その家の一人息子が呆然と立ちつくしている。

 靖男も動くことができなかった。

 ややあって、少年がサイレンのような悲鳴を上げた。

 靖男は我に返って逃げ出した。

 とにかく走って、走って、逃げた。



 《標的》の家から一キロほど離れた場所に公園がある。そのトイレの掃除用具入れに隠しておいたバッグを取り出して、個室に駆け込む。壁にもたれて荒れた息を整えようと努力する。

 数分経って、呼吸も気持ちも少し落ち着いてきた。

 頃合いを見て途中で脱ぐつもりだった目出し帽をここでやっとむしり取る。長袖の黒シャツとズボンを脱ぎ、バッグから出した私服に着替える。

 一旦個室を出て腕を洗い流す。また個室に戻り、電話をかけた。

 相手は警察の担当者だ。互いに名乗り合うこともなく、任務を遂行した旨を伝えると、相手は『苦労さまでした』と同情するような、ねぎらうような神妙な声で応えた。

『なにか問題はありましたか?』

「死亡確認をする暇がありませんでした。家族に見られてしまって」

『それで!?』

「逃げました」

『あなたが? 家族が?』

「すみません。自分がです」

『家族に危害は加えていませんね?』

「もちろんです!」

『顔は見られましたか?』

「いえ。マスクをしてましたので」

『わかりました。あとはこちらで引き受けます。では』

 電話は切れた。

 死亡確認ができなかったのは大失態だ。救助活動の基本中の基本だというのに。人を殺しておいてなにが救助活動だ。

 頭の中が裏返り続ける。

 しかも家族に目撃されてしまった。

(大丈夫だ。目しか見られていないし、夜だ。俺の顔などわかるわけない)

 あとはさっきの警察担当者の手配で《標的》の遺族には申請してきた男の資料が渡される。靖男も自衛隊も、この一件になんの関わりもないのだ。

「しまった……」

 一本目のナイフがギターケースに刺さったままになっていることを思いだす。血の気が引いた。

 証拠品を現場に残してきてしまった――そんな風に考え、頭を振る。

(なにを犯罪者みたいにビクついてる! 俺は悪くない! ビビる必要なんてない!)

 使ったのは市販のサバイバルナイフで、今はどこででも手に入るようになった代物だ。あれから靖男や自衛隊に辿り着けるものではない。

 警察担当者に伝えるべきか迷ったが、止めた。指紋だって付いてはいない。あとはむこうでどうとでもするだろう。恥の上塗りを自己申告する気にはなれなかった。

 次に村上へ報告の電話を入れた。

 相槌も打たずに聞き終えた村上は「これからどうする? 家に帰るのか?」と訊いてきた。

「はい。そのつもりですが……」

「止めておけ。声も喋り方もおかしい。今夜はどこかに泊れ」

 言外の『妻に感づかれるぞ』という忠告に、靖男は素直に従うことにした。

 電話を切り、深呼吸をする。

 大丈夫だ。これからの暮らしになんの影響もありはしない――そう自分に言い聞かせるが、嘔吐がこみ上げてきた。

 すぐさま便器に向き直ろうとしたが間に合わず、自分の足元に吐き散らした。

 なぜかこれが決定的な証拠になってしまうような不安にかられて、靖男はトイレットペーパーでゲロを掃除した。

 臭いにつられてまた上がってくる吐き気を堪える。

 できる限りきれいにした個室を出ようとして、怖くなった。

 個室の外に、誰かが、あの《標的》の息子が立っているような気がしてならない。

 思い切って扉を開くと、そこには誰もいなかった。



 腕の中で生気を失い、重くなっていく《標的》の身体。立ちつくしていた少年。悲鳴。血の匂い。ゲロの味。

 五感の全てで人殺しという行為を記憶してしまった。

 任務だったといくら自分に言い聞かせても――

 寝ても覚めてもあの晩のことが靖男の頭から離れなかった。

 駐屯地での訓練や実習には身が入らず、夜は眠れない。

 浅く短い眠りは悪夢を繰り返すばかりで、睡眠不足になった。

 食欲は失せて、集中力と体重と筋力がみるみる落ちていく。


 これが噂に聞くPTSD――心的外傷後ストレス障害というものではないかと思いあたった。

 しかしそれを誰にも相談することができず、インターネット頼りの素人診察でさらに気持ちは暗澹となった。あるとき、PTSDを『戦争後遺症』と表現する一文を見つけて衝撃を受けた。追い打ちだ。

「俺は戦争に加担したのか」

 自衛隊は日本國を防衛し、日本國国民の生命と財産を守るために存在する。戦争を放棄した日本國の誇りとする一団である――青臭いと失笑されてしまいそうで、もう長い間口にしたこともなかったが、靖男はそれを自らの矜持としてきた。

 だというのに、日本國は自国内での個人レベルの戦争を肯定するような悪法をばら撒いた。

 そして、自分は守るべき日本國国民を殺してしまったのだ。

 自身の立脚点を粉々にされた虚しさに、靖男は自衛隊を辞めることを決意した。

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