23 第五章 今井靖男
二〇一一年八月十六日、熱帯夜だというのに長袖で全身黒づくめの靖男は、とある民家の塀の裏に潜んでいた。
住人は植物栽培や庭いじりが好きなようだ。植え込みや鉢棚が多く、隠れて待ち伏せするには申し分なかった。
影に沈んで《標的》を待ち伏せる。
今年は蝉が鳴かないという。靖男もそれを実感していた。駐屯地と住まいがある横須賀には煩わしいほど蝉がいた。しかし今年は蝉の声をほとんど聞かない。
きっとここ藤沢市にも蝉はいたはずだ。しかし、下見のために昼間この辺りを訪れたときも蝉の声は聞こえなかった。
そのくせ蚊は相変わらずいる。長袖に目出し帽まで被っているというのに、生地越しに全身を刺され、痒くてたまらない。物音を立てないように用心して掻く。
下調べで《標的》は遅くとも夜九時までには帰宅してくることが分かっている。間もなく夜八時。
足音がする度に塀の飾り穴から確かめた。《標的》ではなかった。
緊張と弛緩。緊張と弛緩。繰り返すほどに緊張はより苦しくなり、弛緩は避けられないことを先延ばしにしている憂鬱さに変わる。
早く済ませてしまいたい。
靖男の任務は、公殺権の代理行使というものだった。
かねてよりこの日本國は、権利に関して平等意識が高い。
公殺したい相手がいても実行に移せない可哀想な弱者はどうすればいいのか?――重病人や障害者などの権利を守ろうとする人権団体がそんな声を上げるのに、そう時間はかからなかった。
それを無視できなくなった日本國政府は試験的に、そして秘密裡に公殺権の代理行使を請け負うことにした。
国と警察と自衛隊とで話し合いがなされ、実行は自衛隊が担当することとなった。
「確実に公殺を行うことができる身体能力が求められた結果だ」
ある日村上は密かに靖男を呼び出して苦々し気にそう告げた。実直な自衛官・村上にとって公殺権の代理行使など業腹極まりないのだろう。
「なぜ自分が選ばれたのでしょうか?」
釈然としない思いを面に出さないように注意して訊いた。
「身体能力と職務に臨む態度が優れているからだ。それに、父親を公殺で亡くしているな?」
「はい」
「それにも動じていない肝の据わり方が決め手になった」
(そんな理由があるか!)
父に今更な疎ましさを覚えた。まさか死に方が自分に厄介事を運んでくるとは。
こうして物影に潜む段になっても、靖男はまだ納得がいっていなかった。
聞けばこれが公殺権代理行使の最初のケースだという。ありがたくない話だ。
公殺代行を申請してきた男は末期癌で今にも死にかかっているという。憎い相手の最期を見届けるまでは死んでも死にきれないらしい。
話を聞いて靖男は気が滅入った。これまで自衛隊員として守るべき対象と敬ってきた日本國国民は、こういう連中だったのか。
『この新しい法律は日本国國民の民度の高さを逆説的に証明することになるであろう』
弁護士と小説家という二足の草鞋を履き、テレビでさらに知名度を稼いで政界に乗り込み、とうとう総理大臣になってしまったあの男は、一体どんな根拠や勝算があってあんなことをほざいたのか。
父の死後に湧いて出た興信所や情報提供会社を思い出すたびに不安に襲われる。
(俺が遺族から恨まれるということは……)
それが最大の懸念だった。自分はもちろん、杏子まで恨まれるようなことになってはたまらない。場合によっては、御法度であろうと命令をつっぱねる覚悟だった。
「遺族に渡される情報はあくまでも依頼してきた人間のものだ。我々の代行は手段に過ぎない。そもそも代行の事実も伏せられる。自衛隊が関わったことは絶対に公にはされない。だから任務遂行にあたって官品は一切使用しない。顔を隠して行っても構わない。遂行後は速やかに移動して警察に連絡すればいい。もう警察とも話しはついている」
村上の説明に、靖男は内心で毒づいた。
(まるで殺し屋じゃないか)




