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吠えない蝉  作者: 野間義之
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 十八時半を過ぎ、靖男(やすお)は強引に仕事の目処をつけて退社した。

 村上からの電話以降、仕事に身が入らなかった。捗らなかった分は明日こっそり出社して処理するつもりだ。

 最寄りの小田急線の(しょう)(なん)(だい)駅から藤沢駅へ移動する。

 週末を目の前にした藤沢市街は人が多かった。

 まだ少し早いが待ち合わせの居酒屋へ入る。村上よりも早く店に着くためだ。組織人の礼儀としてではない。せめて待つ側に回って迎え討つ心構えを整えておきたかった。

 この店は靖男が指定した。会社の飲み会で二度ほど訪れたことがあった。

 席はほとんど埋まっていた。予約しておいて正解だったと小上がりの席に案内されながら靖男は思った。

 小上がりには4組分の飯台が適度な距離で置かれている。いざとなれば大声一つで周囲の気を引くことができる。

(これなら、むこうもおかしな真似はできないな)

 ひとまず地の利を得た、と靖男は無理やりにでも自分の優位を見つけようとしていた。


 昼間からずっと村上の目的を考え続けていた。

 あの任務に関わる言動を除けば、村上は人情味ある尊敬できる上官だった。架空の会社名義で退職金が払われるように段取りをつけてくれたのも村上だった。

 ――純粋に元部下を気にかけているだけかもしれない。

 ――社長から自分の不器用な仕事ぶりに愚痴を聞かされて、紹介した手前責任を感じて様子を見にきたのかもしれない。

 そんなことならばなんの問題もない。

 ――自衛隊に戻ってこいと言われるかもしれない。

 いや、それはないだろう。予備役の登録すら許されなかったのだから。

 ――靖男が誰かに機密を漏らしたりしていないか確かめに来るのかもしれない。

 この可能性が高いと靖男は踏んでいた。そうなれば、誰にも話していないと訴えるしかない。証明のしようはないが、事実そうなのだ。杏子にすら告白していない。

 最悪な想像はこうだ。

 ――口封じに靖男を殺すつもりなのかもしれない。

 それをする位なら自衛隊にいるうちになにか起こったはずだ。

 口封じに殺すの殺されるのと、まったく映画や漫画に毒されている。

 しかし、今の日本國を思うと一笑に付せないものがあった。

 なにしろ十八歳以上であれば誰でも生涯に一度だけ人を殺すことを法律で認めているような国なのだ。

 そんな国の機関であれば、どんな恐ろしいことをしてくるか分からない。

 事実、靖男はそうしたことに関わってしまったのだから。

 とにかく警戒するに越したことはない。

 村上は四十代だが筋力も運動神経もまだまだ若い連中に引けを取らない。それでもいざ殴り合うような事態になれば自分が負けるはずはないと靖男は考えている。自分の方が膂力もあり酒だって強い。酔い潰されないように気をつければ大丈夫だ。

 それにしても、と靖男は騒々しくにぎやかな居酒屋で暗澹たる心地になった。

 自衛隊時代に漠然と思い描いていた『有事』に、今自分だけが直面しているような気がしていた。


 約束の数分前。

 暖簾をくぐって村上が店内に入ってくるなり、靖男は条件反射で起立した。

 村上は気さくに「よう」と手を挙げるが、靖男は小上がりを下りると全身を一直線にして声を張る。

「ご無沙汰しておりますっ」

 深々と頭を下げる靖男に村上は気まずい声を出す。

「やめてくれよ。ヤクザの親分子分じゃあるまいし」

「申し訳ありません」

「敬礼されなかっただけマシだと思うことにするよ」

 ようやく二人は笑みと握手を交わして腰を下ろした。

 どちらも半袖のワイシャツにネクタイ、下はスラックスという恰好だ。傍目には多少強面なサラリーマンの上司と部下が仕事帰りに一杯やっているように映るだろう。

 まずはビールで乾杯するが、靖男は警戒と緊張で味がしなかった。

「奥さんはどうだ? 予定日は十月だったな?」

「おかげさまで順調です。大きなお腹でもケロっとしてますよ。自分のほうがヒヤヒヤしているくらいです」

「男なんてそんなもんだ。そうだそういえば、相沢のやつ、ようやく子供ができたそうだ」

「本当ですか! 相沢さん、ずっとほしがってましたからね。よかった。よかった!」

 しばらくは村上からの近況報告が続く。誰それが昇進しただの、誰それが結婚したがアレは寮を出るための偽装だろうだの、配備車両がやっと新しくなりそうだの。懐かしい面々の顔が浮かぶ話に靖男の頬も自然と緩んだ。

 二人の間には料理とピッチャーが置かれ、ビールを注ぎ合う。

 警戒は簡単に薄らぎ、酒が進む。

 酔いで緩み、楽観的になる。

 ひょっとしたら、村上は本当に靖男と一杯やりたかっただけなのかもしれない。

 だとしたら、二児の父親でもある村上に尋ねてみたいことはいくらでもある。

 子供の誕生を前に、不安になったことはないのか?

 赤ん坊の夜泣きは大変だというが、どの程度なのか?

 乳幼児期の子育ては自衛官候補生時代よりも大変なのか?

 そして、まだ母親のお腹にいる我が子の動きをその手に感じたことがあるのか?

 村上の話が途切れたのをしおに、それらの心配事や疑問をぶつけてみようと身を乗り出した。

「村上さん、あの……」

「今井、仕事はどうだ?」

 二人の声が重なり、譲り合いを経て靖男が答える。

「なかなか慣れないですね。机に向かっているのは昔から苦手ですし。頭は疲れるのに体は疲れないので夜もなかなか寝付けません」物言いが愚痴っぽいことに気づき、あわてて言い足す。「ですが、このご時世に再就職できただけでもありがたいです。そのうち慣れると思います。いえ、慣れてみせます」

「そうか。暮らしは大丈夫か?」

「はい」

「本当か?」

「そりゃ昔に比べたら……ですが蓄えはありますし、そのうち女房もまた働くと言ってます。充分やっていけます」

「そうか……」

 前向きな答えのつもりだったが、村上の表情は曇っている。

 どうかしたのだろうか。

 そもそも酒席とはいえ村上はこんなに喋る男だっただろうか。

 もしかしたら、なにか思い悩んでいることでもあるのではないか。

 少し前までの警戒はどこへやら、靖男は村上を案じ始めた。

 なにかと骨を折ってくれた恩人の力になりたい。

「これから話すことは、他言無用で頼むが……」

 辺りをはばかる村上の声音に靖男は張り切って身を乗り出す。

「おまえにやってもらったことを、今後は自衛隊員で行うのではなく、外注しようという話がある」

 村上の言葉を、頭は咄嗟に理解できなかった。

「は?」

 現役であったら許されない不敬な声が出た。

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