1 第一章 八月五日
「ただいま!」
思いがけない孫娘のハグに祖父は硬直してしまったようだ。「おかえり」とも「うむ」とも応えない。当然ハグを返してくることもない。
「あらあら」
その様子をかたわらで祖母が愉快そうに見ている。
二〇一二年八月五日。
日本國千葉県成田市、羽田空港の到着ロビー。
二年ぶりにイギリスから帰ってきた孫と祖父母の再会だった。
城戸明日美の目に二年ぶりの母国はなにかが変わったようには映らなかった。帰国前の心配や不安を思うと拍子抜けだ。
むしろ明日美のほうが変わってしまったようだ。
到着ロビーで祖父母を見つけるなり思わずハグしてしまった。二年ですっかりイギリスナイズされていた。
(よかった! 生きてた!)
しかし、祖父の狼狽に気づくと明日美はあわてて離れた。
「ただいま」
改めて挨拶すると、祖父は崩れかけた相好で「うむ」と威厳のある装い声をしぼり出す。
「お帰り、明日美ちゃん」祖母は孫をじっくり見た。「明日美ちゃん、すっかり大人になって。はじめわからなかったわ」
「そんなに大きくなってないよ」
「ううん。大人っぽくなっちゃった」
黒のキャップにバテンレースのノースリーブ。下はデニムにスニーカー。長旅での楽さを優先したラフで大人っぽさには程遠い格好だが、それでも祖母の目には違ってみえるらしい。
「これじゃ十七歳に見えないわ。もっと子供っぽい恰好しなくちゃ。それから未満章っていうのをちゃんとしないとね。おばあちゃん、昨日役所にもらいに行ってみたんだけど、本人が一緒じゃないと駄目だっていうのよ。だからね……」
「やめんか、帰ってきて早々に」
厳めしい態度で祖父がたしなめると、祖母は「だって……」と口を尖らせて引き下がる。
「よく帰ってきたな。お父さんとお母さんは?」
「荷物がまだ出てこないみたい。おじいちゃんたちが待ってるから先に行ってなさいって」
明日美が説明しているうちに、荷物を積んだカートを押して明日美の両親が到着ロビーに姿を現した。
成田空港を出て、祖父が運転する車で神奈川を目指す。
助手席からの車窓からも、大きな変化を見つけることはできなかった。
ただ、イギリスの街並みに慣れてしまったせいかガードレールがひどく滑稽で不細工に見えた。
『日本は過保護なんだよ』
イギリスで知り合ったインド人学生にそうからかわれたことを思い出す。
しかしあの法律が施行されると、彼はこう言った。
『撤回するよ。国民を守ってなんてくれないクレイジーな人殺し国家だ』
「人殺し……」
助手席でつぶやく明日美に祖父が「どうした?」と視線を向ける。
「なんでもない」
「むこうを何時に出たんだ?」
「あっちの時間で昨日の二時だから、こっちは昨日の夜十時」
「飛行機でもそんなにかかるのか」
「あっちの空港は人が多くて大変だったよ。オリンピックやってるから」
「オリンピック?」
「ロンドンオリンピックだよ」
「ああ、もうやってたのか」
「おじいちゃん、観てないの?」
「オリンピックなんてこっちじゃ全然やってないぞ」
「うそ!?」後部座席から父・直人が身を乗り出してくる。
「日本が不参加を決めてから、テレビもラジオも新聞もさっぱりよ」祖母がぼやく。
「ていうか、日本がオリンピック委員会や世界中から参加を拒否されたんだよ」
「やっぱりそうなのか?」
「あっちじゃそう言ってた」
「まったく日本國は嘘ばかりだ。まるで戦時中だ」
明日美の説明に祖父が嘆き、車内に沈黙が落ちた。
ややあって祖母がつぶやいた。
「イギリスにいればよかったのに」
真剣なその口調に、明日美は助手席から振り向いた。
後部座席に祖母、父、母という並びで座っている。
祖母は隣の直人にだけこっそりと話しかけたつもりらしい。明日美と目が合い、祖母はバツが悪そうに繕い笑いをみせた。
「イギリスだって色々物騒だって言ってるじゃないか」
直人がうんざりした調子で応じた。
母・紀子は黙って窓の外に眠そうな目をむけている。時差ぼけなのか、そのフリなのか。
「なに言ってんの。日本なんてね……」
「勤務先なんて直人が決められることじゃないんだ。何度も言ってるだろう」
「でもー。イギリスに残らせてくださいって頼んでみてもよかったんじゃない?」
祖父にたしなめられても、祖母はまだ食い下がる。
「そんなこと……」
「会社やサラリーマンというのはそうしたものだ」
苦笑する直人に祖父が助け舟を出す。
「でも、変わらないもんですね。空港とか、全然前と同じでしたし。もっとギスギスっていうか、暗い雰囲気なのかと思ってました」
紀子が明るい口振りで雰囲気を変えようとするが、「そのうちわかるわよ」と祖母は暗く応じて台無しにする。
「恐がることない。普通にしてればいいんだ」
祖父が仏頂面で断言してこの話題は終わった。
家族間の会話が紛糾しかかると、祖父が正論や身も蓋もない物言いでばっさりと立ち切ってしまう――それは昔からのことだ。
こんなことにも懐かしさを感じながら、明日美は前に向き直った。
ロンドン・ヒースロー空港を出発したのが現地時刻で昨日の午後二時頃だった。
それから約半日のフライトに八時間の時差を加えて日本時間の今朝九時に成田空港へ到着した。
そして今は午後一時をまわっている。
ロンドンでの住まいを出発して十六時間余を経て、ようやく神奈川県藤沢市の懐かしの我が家へ到着した。
藤沢市といっても二十分も北へ歩けば隣の大和市に入ってしまう。市の境近くに位置する山がちな田舎町だ。最寄りの駅は小田急線の長後駅。梨や葡萄などの果樹栽培が盛んで、祖父母も小規模ながら果樹園を営んでいる。
明日美がまだ小学生の頃に古くなった家を二世帯同居住宅に建て直した。一階に祖父母が暮らし、二階に明日美と両親が暮らしていた。
留守にしていた二年間、祖父母が二階の掃除や手入れを引き請けてくれたおかげで、すぐに生活が再開できそうだ。
「ありがとうございました」
「なんてことない」
紀子の礼に祖父は仏頂面で応えると、さっさと階段へ向かう。
「お茶ぐらい飲んでいきなよ」
直人は引き留めたが、祖父は祖母を連れて一階へと下りていく。長旅で疲れている息子家族を早くゆっくりさせようという気配りだ。
祖父も祖母も変わらないなと、明日美は改めて安堵した。
二年ぶりの自分の部屋は、蒸し暑かった。
クーラーを入れると、ややカビくさい風がじょじょに心地良い涼風へ変わっていく。
少し腰掛けるだけのつもりが、ついついベッドに横になる。柔らかいタオルケットから陽ざしで丸くなった洗剤のいい匂いがする。
半日がかりの飛行機疲れと八時間の時差が一気に襲いかかってきた。
イギリスはまだ夜明け前だとなんとなく計算する。
寝ている場合じゃない。やらなければならないことが山ほどある。
荷ほどきはもちろんだが――
「智朗くん家に行かなきゃ」
わかってはいるが、目は閉じていく。
明日美はそのまま日本時間の夜まで眠ってしまった。
松川智朗は汗まみれで目を覚ました。
雨戸、カーテンまで閉め切った室内に夏の日差しはほとんど入ってこない。しかし冷房も換気もされていないので蒸し風呂のようだ。
ベッドから身を起こして時刻を確かめる。午後二時過ぎ。
最近いつもこうだ。朝の偵察を終えると、昼前には眠気に襲われて長い昼寝をしてしまう。
階段を下り、台所で適当に食べ物を漁って食べる。
もう何か月も出来合いの弁当や総菜ばかりで過ごしていた。
たまに叔父夫婦が差し入れてくれる食べ物が唯一の家庭の味だ。もちろんそれは舌が欲しがる我が家の味ではないが。
今日は八月五日。
カレンダーの八月四日までバツ印で潰されている。
少し先の八月十六日には赤いペンで花丸が付いている。母が生前に付けた印だ。
その日まで、あと十一日。
カレンダーの脇にA4サイズで大きくプリントアウトされた写真が貼られている。
角刈り頭の青年の写真。情報提供会社の隠し撮りだ。その顔に千枚通しが刺さっている。
智朗はそれを抜き、また突き立てる。抜き、また突き立てる。それが繰り返されたのだろう。顔だけでなく喉も胸も、写真はもうボロボロになっている。
「殺す」つぶやき、また突き刺す。「今井靖男、ぶっ殺す」