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吠えない蝉  作者: 野間義之
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18

「あそこだ」

 直人の声に前を見ると、歩道に日傘を差した女性が立っていた。

 彼女はスピードを落とした明日美たちの車に一礼し、アパートの駐車スペースを指して誘導する。

 車を降りた直人に駆け寄った女性は傘をたたみ、深くお辞儀をした。

「おひさしぶりです。わざわざ来ていただけるなんて。ありがとうございます」

「いえいえ。いまさらですが、ご愁傷様です、と申し上げてよいんでしょうか。もう旧姓に戻られているのに」

 申し訳なさ気な直人の隣で明日美も頭を下げた。

「明日美さん、でしたっけ?」

「はい」

 初対面だと思っていた明日美は焦った。

 直人が尋ねる。

「娘と会ったことありましたっけ?」

「会社の野球大会のときに」

「もう十年ぐらい前ですね」

「ご一緒にお買い物ですか?」

「今日は一緒に役所へ未満章を取りに」

「そうですか。あれはしておいた方がいいですよ」

 直人に忠告する女性を明日美は観察する。

 話題に上った野球大会のことは思いだせなかった。

 母よりいくらか若そうだ。三十代半ばほどに見える。目元に力のある凛とした印象の女性だった。

 しかし夫を殺された未亡人という先入観のせいか、細身(ほそみ)なのがやつれているように見える。

 中学生と小学生の子供がいると聞いている。



「長居しない。すぐ戻ってくるから」

「暇だったらそこのコンビニに行っていい?」

「ああ。でも戻ってもエンジンはかけるなよ?」

「わかってる」

 未亡人と直人がアパートの外階段を上がっていく。

 明日美は車に残った。面識のない人に線香をあげるのは気が進まなかった。直人も誘うようなことはなかった。

 エンジンはかかっていてエアコンも利いているが、日差しはガラス越しでもチクチクと肌を焼いてくる。

 時刻は午後三時過ぎ。

 家に帰れるのは早くても一時間後といったところだろう。

 帰国以来、夕方以降の外出は絶対禁止となっている。「物騒だから」と母がそう決めたのだ。

 今日は智朗の家に行けないかもしれない。


 もう来るな――顔も見せずにそう言われてからも、三日続けて明日美は松川邸を訪れていた。

 ドアを叩こうが、名前を呼ぼうが、智朗はもう玄関にやってくる気配さえ見せなかった。

 昨日などはさすがに腹が立って雨戸にむかって石を投げたりもしたが、それでも無反応だった。


「あのヒキコモリ!」

 口にして、イギリスでのことを思いだした。



 ある時、なぜ日本國の若者はヒキコモリになってしまうのかと質問されて答えに困っていると、日本國通を自称するアメリカ人が助け舟を出してくれた。

『日本國は神様がヒキコモリのパイオニアなんだからしかたないんだよ』

 彼はアマテラスオオミカミの神話を皮切りに、過去の鎖国政策、そして今や世界中から遠巻きにされている日本國の現状までを包括した壮大なニホンヒキコモリ論を()った。

 まだ英語が堪能ではなかった明日美にはほとんど内容は理解できなかったが、時折聴衆から「クレイジー!」と声が上がるのは悲しいものがあった。



 ともあれ、今は雨戸のむこうに隠れているトモロウノオオミカミの顔を拝みたい。

「今日行かなかったら、少しは気にするかなー」

 鬱陶しく毎日押し掛けてきていた相手が唐突に姿を見せなくなる。それを機に、一転して気になる異性に早変わり――

『ベタ過ぎ。もうちょっとヒネれよ』

 智朗なら小馬鹿にしそうだ。

 想像にムッとしていると、アパートから父が姿を見せた。まだ五分も経っていない。

「早っ」

 先ほどの未亡人と男の子が一人、連れだって階段を下りてくる。

「どうしたの?」

「この子をみててくれないか?」

 直人が頼むと未亡人が会釈した。

 大人だけの話もあるのだろう。なるほど、自分を連れてきたのにはそういう心づもりもあったのか。

「浮気しちゃダメよ? ママに言いつけちゃうからね」

 小声でませる娘の頭を、父は小突いた。

 大人たちはアパートへ戻り、残された男の子が不安げに後部座席に座っている。

 明日美は助手席から笑顔をむける。

「お名前は?」

「ユート」

 優徒と書くらしい。小学二年生。大人しいのか人見知りなのか、俯きがちで明日美が訊いたことに短く答えるだけだった。

 十八歳以上に見えるわけはないのだが、Tシャツの袖には水色の未満章が留められている。

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