16 第四章 八月十日 その一
午前十一時。
靖男は職場で伝票の分類に頭を抱えていた。
「今井さん、二番に電話でーす。ムラカミさん、ですか? 会社とかじゃないみたいですけど」
同僚女性にそう告げられてギョッとなった。心当たりは一人しかいない。出たくなかったが職場で居留守を使うわけにもいかない。
『今井か? 村上だ。久しぶりだな』
思った通りだった。村上史郎二佐。陸上自衛隊時代の上官。靖男の退職の事情を知る数少ない関係者の一人だ。
久しぶりの声には、変わらず実直で部下思いな人柄がにじんでいた。
「ご無沙汰しています」靖男は平坦な声を出すように気をつけた。
『どうだ、元気にしているか?』
「おかげ様でなんとか」
『そうか。なによりだ』
同僚たちが聞き耳を立てているような気がして落ち着かない。
「申し訳ありません。仕事中でして……」
言わずもがなな言い訳をしてでも電話を切りたかった。
『すまん。他に連絡を取る方法がなくてな』
これは靖男にとって耳が痛い言葉だった。
『じつは今日その辺に行くもんでな。よかったら晩飯でも一緒にどうだ』
それは相手の都合を尋ねるものではなかった。ある種の集団や組織の上下関係に隠然と存在する命令だった。
村上と靖男はもう同じ組織に属していないし、上下のつながりもない。
それでもノーと言えない。
電話を切ると、向かいの席の先輩がからかってきた。
「なになに? 会社に私用電話なんていただけないなー。おんなー?」
「すみません。仕事中に」
「どうした? 汗びっしょりだぞ?」
言われて顔に触れると、たしかに汗がひどかった。シャツの袖で拭って立ちあがる。
「顔洗ってきます。すみません」
「落ちつけ」トイレの個室に逃げ込み、深呼吸を繰り返す。「落ちつけ」
心臓が激しく膨らみ縮みしている。
掴んできたメモを見る。村上と約束した時刻と店の名前。手が震えていたので文字も震えている。
尿意が上がってきて、便座に腰を下ろす。しかし一物は縮こまり、小便は数滴垂れただけだった。
うなだれて目を閉じると、嫌でも思い出してしまう。
村上やさらに上からの説得や遠まわしな警告に応じることなく、靖男は昨年いっぱいで自衛隊を除隊した。
正月気分を味わう余裕などなく靖男は就職活動に明け暮れた。
資格はおろか自衛隊員としての職歴すらなくした三十路近い男がそう簡単に仕事にありつけるとは思えなかった。
「ずっと大変な仕事してたんだから、せっかくだし、もっとゆっくりすればいいのに」
労わってくれる杏子に隠れて、職歴無しの履歴書をせっせと書いた。
しかし二月になり、三月になっても再就職は叶わなかった。正社員どころか非正規雇用にすらありつけない。
そもそも面接にすら辿りつけない。履歴書を送っても、採用見合わせの添え状とともに返送されてくるばかりだった。
四月も半ばを過ぎた頃には、すでに二十社以上から不採用となっていた。
自信喪失と焦りで身悶えし始めた頃に、杏子が身ごもった。三か月を過ぎており、出産予定日は十月九日だという。
待望の妊娠だったが、杏子は喜びを表に出すことをためらっているようだった。
「ごめんね、こんなときに……」
言外に『産んでもいい?』と訊かれている気がして、杏子を抱きしめた。
「大丈夫だ! 仕事はすぐになんとかするから」
杏子に対する申し訳なさと、甲斐性のない自分への怒りと、そして――
『もう誰も殺さない!』
その決意がそのときの靖男の全てだった。
なり振り構ってなどいられない。是が非でも職に就かねば。
靖男は村上に連絡をとった。失った自衛隊員としての職歴と資格類をなんとか取り返したかった。
靖男は頭を下げた。なんらかの便宜を計ってもらえないものかと懇願してみたが、村上にはどうにもできないという。
しかし、村上が個人的に就職先の伝手を紹介すると言ってきた。
「せめて罪滅ぼしをさせてくれ」
(罪滅ぼしなら、俺ではなく遺族にするべきだ)
そんな憤りを飲みこんで靖男はもう一度村上に頭を下げた。
「話はつけておくから心配するな」
村上はそう請け負った。
履歴書の職歴は村上に指示された通りに聞いたこともない運送会社の社名を書いた。
「大丈夫、大丈夫。史郎さんから聞いてるから」
面接先の社長は微笑んだ。社長と村上は遠縁なのだという。
拍子抜けするほどあっさりと採用が決まった。
それでも一度は辞退する旨を村上に伝えた。
「なぜだ?」
「デスクワークなんて自分には無理です。体を動かすことしか取り得がありませんし、それに……」
「場所か?」
「はい……」
その会社は藤沢の工業地帯にあった。
この先一生近づかない、近づけないと考えていたあの家にそう遠くない。
「気にし過ぎだ」
村上のあっさりとした反応に腹が立った。
「簡単に言いますけど……」
「どこにもお前が関わった記録は残っていない。その点は心配することない。堂々としていろ」
そうではない。靖男自身の気持ちが抵抗するのだ。
「そんな選り好みをしている場合じゃないだろう」
たしかにそれは村上の言う通りだ。
結局、気の進まない再就職を果たし、しかも――
自衛隊を辞めたというのに横須賀に留まって藤沢まで通うのは不経済だったので引っ越すことになった。
仕事に追われる靖男に代わって杏子が見つけてきたのが今の大和市の住まいだった。
よりにもよって通勤の度にあの町を電車で通過する羽目になったが、他に道はなかった。
引っ越しを機に携帯電話の番号やメールアドレスも変更した。新しい連絡先をかつての自衛隊の同僚たちには一切教えていない。村上にも同様だ。薄情者、恩知らずと罵られても、とにかく過去を切り離したかった。
今の会社にいる以上、村上を通して自衛隊に、日本國に監視されているのではないか――疑心が湧くこともあったが、慣れない業務に追われているうちにそんなことを考えるゆとりも失った。
何事も起こらず日々が過ぎるうちに、最近では純粋に村上の厚意であったのだろうと思うようになっていた。
しかしこうして村上から接触されると、忘れ去りたい過去に背後から肩を叩かれたような気分になった。
ここで振り返ってはいけない。
かけられた手を振り払って前に走らなくてはいけない。