15
夜、琴美は道で渡部幸世を待ち伏せた。
仕事を終えた幸世がビニールの手提げを鳴らして早足に歩いてくる。
琴美は勇気を振り絞って外灯の下にその身を晒した。
幸世はまず突然の人影に驚き、立ち止まった。そして琴美の姿をじっと見て表情を硬くした。
目の前の女が何者か――
(気づいた!)
琴美は確信して、幸世に一歩近づく。
なにか言わなくては。なにか言われなくては。
また一歩近づき、しかしなにも言えず、幸世の反応を待つ。
幸世のポケットの中で携帯電話が鳴った。
我に返った幸世は電話に出た。
「もしもし優徒? ごめんごめん、もう家の近くだから。お土産、プリンだよー!」
下の息子からの電話らしい。明るい声で応じながら、横目で琴美を警戒しつつ、すれ違い、行ってしまった。
なにも起こらず仕舞いだったが、それでも幸世は琴美の存在に気づいた。
自分の夫を不倫の末に殺した女がいけしゃあしゃあと目の前に現れた。これでもう無視できるはずがない。
すぐになにか行動を起こしてくるに違いない。
しかし、何日待っても幸世はまったく接触してこなかった。
幸世と対面したことで、躊躇が少なくなった。琴美の行動は大胆になる。
不動産業者の営業マンが言うには、そのアパートの名称『カーサ・デ・ソル』は、メキシコ語で『太陽の家』という意味らしい。
幸世たちが住まう北向きのアパートの正面に『太陽の家』とは大した皮肉だと琴美は感心した。
「前はこのアパートもいっぱいだったんですが、ここや一階のご家族は疎開されてしまいまして」
営業マンは困り顔で説明した。
居間は南に面していて、その真正面に幸世たちの部屋がある。
「ここ、借ります」
間取りも家賃も確かめずに、琴美は即決した。
こうして琴美は大和市の『カーサ・デ・ソル』へ越してきた。
念押しに運送会社を使って小荷物を幸世の店に送り着けた。伝票には琴美の名前と『カーサ・デ・ソル』の住所を書いた。
これで向かいの部屋に仇・早川琴美で越してきたと絶対にわかったはずだ。
それでも幸世は近づいてこない。
琴美は四六時中、居間から堂々と幸世たちを見た。
しかし幸世はアパートにいるときも、出入りするときもけして琴美の部屋を見ようとはしなかった。子供たちもどう言い含められているのか琴美の方に目をむけようとしない。
それならばと琴美は藤沢の夜の街で仕事を見つけ、派手な格好で出歩いた。
平和な住宅地に越してきた場違いな水商売女は目立つことこの上ない。
さらにベッドを居間に動かし、店で捕まえた男を連れ込み、ふしだらで放恣な暮らしぶりを見せつけた。
夫を不倫の果てに殺した女にそこまでされて不快感や怒りを抱かないはずがない。
そしてとどめに幸世の店に水商売丸出しな恰好で乗り込んだ。
「しょっぼい店ねー。みんな不味そうだし」
悪質な嫌がらせ客を装う琴美に、それでも幸世は店主として丁寧な対応を貫いた。
(すました顔してるけど、きっとアタシの弁当には……)
そんな期待と覚悟を抱いて琴美は通い続けていた。