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吠えない蝉  作者: 野間義之
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 その男は名刺を差し出すこともなく、ただ情報提供会社の者だと自己紹介した。

 喫茶店でさし向いに座るなり、肩掛け鞄の口から大きな紐付き封筒をちらつかせる。水谷の妻と子供のことを調べてあるという。

「アタシには、あっちのことを知らされないんじゃないの?」

「警察や役所は教えないさ。でもアンタが自分で調べるのは自由だよ。知らなかった?」

 そんなこと考えもしなかった。警察署を再訪した際に水谷の私物をあの刑事に託した。それ以外に琴美はなんの行動も起こしていない。

「奥さんや子供のこと知って、どうなるっていうのよ」

「早川さんさー、自分の身を守ろうって気はないわけ?」

「そんなのアンタに関係ないでしょう。調べてくれとか頼んでないし」

「それじゃ、これはいらないか。逃げるにしろ話つけるにしろ、相手のこと知っておいて損はないと思ったけど」

 足元を見た物言いや態度。不愉快な男だ。

 しかし提案には一理ある。

 待つばかりでなく、こちらから出向くのも一つの手段だ。話し合うにしても、そのほうが印象もいいかもしれない。

 近くのATMで下ろした六万円を渡すと、男は封筒を残して去っていった。素人くさい見栄えのしない書式の報告書が入っていた。

 それによると水谷の妻は(ゆき)()というらしい。現住所、実家の住所、そして働いている弁当屋の住所も書かれている。数年前に友人と一緒に始めた店とある。二人の子供たちの名前と通っている学校名、学年、学級も記されている。

 妻と子供たちの写真が貼ってある。水谷のスマートフォンで見た顔だった。

 何か役立つ情報でもあるのかと期待していたが、住所以外は知ってどうなるものでもない。

 値段に見合う内容とは思えなかったが、それでも琴美は新しい手段を得た気分だった。

 いつまでもこうしていられない。明日にでも幸世を訪ねよう――そう決意した。


 しかし、いざ朝になると勇気が出なかった。

 多少の後ろめたさと自己嫌悪はあったが、結局いつものように出勤して一日が終わる。

 明日こそは――決意を繰り返しては先延ばしにする。

 なにもできないまま五月が終わった。

 琴美が水谷を公殺してひと月半。幸世がやってくる気配はない。

 代わりに興信所や情報提供会社を名乗る者たちがたびたびやってきては情報を売り込んでいく。琴美は時々それらを買った。


『水谷幸世はマンションを売却。夫を亡くして大幅に収入が減ったことが原因と考えられる』

『息子二人が学校でイジメの対象となった。父親が不倫の末に殺されたことが保護者とその子供たちの間に知れ渡ったためである』

 公殺権を持つことができるのは十八歳からだ。そして十八歳未満は公殺の対象にしてはならない。

 まだ十八歳が遠い、幼い子供のイジメほど以前同様に陰湿だ。

『イジメを受けたことで次男(小2)は登校拒否となる』


 情報を買う度に知る事実に、琴美は罪の意識を深くした。


 やがて幸世は旧姓の渡部に戻り、二人の息子を連れて神奈川県大和市へ引っ越した。幸世の弁当屋の近所だ。

『二人の息子を転校させてイジメの問題を解決することが一番の理由と思われる。引っ越す先は近年ベットタウン化が進んでおり、児童・学生の転入も珍しくない。身の上を詮索されずに母子ともども心機一転やり直すには比較的困難が少ない地区と思われる』

 情報提供会社の報告書にはそう私見が添えられていた。

 琴美は泣いた。遺族の人生を狂わせてしまった。

『殺されてお詫びせい!』

 近頃では事あるごとに父の叱責が脳裏をよぎるようになっていった。

 そうだ。どうせ自分はもうこれからの人生に希望のない『札無し』なのだ。

 幸世に殺されてしまおう。それしか罪滅ぼしの方法はない。



 六月のある日、ついに琴美は幸世たち母子の転居先を訪れた。

 小田急線・高座(こうざ)渋谷(しぶや)駅から歩いて十分弱のところに渡部幸世と二人の息子が暮らすアパートはあった。

 居間とベランダが北向きに作られていて、日当たりは悪そうだ。その分家賃が安いのかもしれない。

 玄関の呼び鈴を鳴らすが、返事はない。

 平日の午後二時前。弁当屋で働く幸世がいるはずない。子供たちも学校だろう。

 琴美は居心地の悪さから半月ほど前に会社を辞めていた。以来、曜日や時間の感覚がおかしくなっていた。

 卑怯にも、安堵した。

 そして、空振りしたくせに罪滅ぼしの第一段階を果たしたような気になってしまう自分が情けなくてならない。

 悄然とアパートを後にしかけた琴美は向かいのアパートの入居者募集の看板に気付く。見れば幸世の部屋の真向いに位置する部屋が空いているようだった。

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