13
どれほど待っても、誰もやってこない。
もうとっくに初七日も過ぎ、そろそろ憎い仇に対してなにか行動を起こしてもいいはずだ。
会社は数日休んだものの、琴美はやがて出社するようになった。危機感や罪悪感が薄れたわけではないが、自ら命を絶とうとは考えなかった。
ならばとりあえずは生きていなくてはならない。
道で水谷の妻に待ち伏せされるかもしれない。毎朝覚悟して出社したが、何も起こらなかった。
水谷の会社から新しい担当営業がやってきた。誰に対しても愛想のよい彼が、琴美にだけは無表情に接してくる。
出したお茶を手の甲でそっとテーブルの端へ遠ざけられて琴美は直感した。
(この人、アタシが殺したって知ってるんだ……)
表向き水谷は病死したことになっていた。社の人間が公殺されたというのは外聞が悪いからだ。『恨まれて殺されるような人間を雇用する、人を見る目のない会社』『殺されるほど人に恨みを買うような仕事をしている会社』というマイナスイメージを持たれてしまう。
琴美と水谷の関係は誰も知らないはずだった。
しかし休んでいた数日の間に、琴美が不倫の末に水谷を公殺したことは公然の秘密となっていた。
「早川くんは、もうお茶出しとかしなくていいよ」
課長がわざわざ呼びだしてそう告げた。
「どうしてですか?」
「どうしてって……早川くんはもうウチ長いし、そういうのは後輩に任せてほかの仕事をバリバリやってもらわないと」
見えすいた嘘だ。琴美よりもずっと年を食ったベテラン女性社員は相変わらずお茶出しをしている。
それにいつも「やっぱりお茶を出すなら美人じゃないとね」と、大事な客へのお茶出しは琴美を指名していたくせに。
職場での琴美に対する変化はそれだけではなかった。
「早川さん、これできなかったからお願いします。早川さんが休んでた間、あたし、早川さんの仕事やりましたから。いいですよね」
入社二年目の後輩が定時間際に当日中の業務を琴美に返してきた。悪びれた様子はまるでない。
これまで口応えひとつしたことのない後輩の豹変に琴美は不吉なものを感じた。
あくる日、やんわりと立ち入りを禁じられた給湯室から後輩たちの会話が聞こえてきた。
「早川ってさ、札無しだから、もうなに言っても平気だよ」
「バカだよねー。この先なんかあったらどうする気なんだろ」
陰口にしては声に遠慮がない。琴美の耳に入ることを恐れていない。
「ていうかさ、不倫しといて逆ギレて毒殺ってどーなの?」
「究極の略奪愛?」
ドッ、と皆が嗤った。
『札無し』とは、公殺権を行使した者を指す蔑称だ。公殺権という一生一度の切り札をすでに失った者という意味だ。
公殺法が始まって以来、人々は周囲の誰にも恨まれることがないように気を遣い、優しく穏やかに振る舞っている。細心の注意を払うあまり、陰口さえなかなか叩けない。
今、周りが琴美にこんな態度を取るのは、彼女がもう誰も殺すことができない弱者――札無しになったからだ。
どう恨まれたところで、琴美に公殺される心配はないのだから。
日に日に社内での居心地は悪くなっていった。そんな四月のある日のこと。
「早川琴美さんでしょ?」
仕事を終えて職場を出るなり、見知らぬ男が声をかけてきた。ボサボサの髪に不精ひげ。歳は三十ぐらいだろうか。派手な柄シャツの上に色落ちし始めている黒のジャケット、皮パンにブーツ。まっとうな勤め人には見えない胡散臭い風体だった。
「そうだけど……」
琴美は緊張した。水谷の妻の使いだろうか。
「アンタ、人、殺したよね?」
注目を集めるように響く男の大声。通行人たちが盗み見ていく。
「なによアンタ? 水谷の奥さんの知り合い?」
「それ!」男はヤニ色の歯をみせてニヤリとした。「その人の情報、買わない?」