9 第三章 早川琴美
公殺法公布当時は反対運動やデモが起こった。しかし施行が近づくにつれてそれらはすぼんでいった。
施行初日、各地で公殺権が行使されたと簡単に報道されただけで、その数や詳細は国民には伝えられなかった。
以降はどの報道機関も公殺法についてほとんど触れなくなる。
国民が正当な権利を行使しているだけ。それをわざわざ報道することはむしろプライバシーの侵害になる――これが報道機関の公殺法にからむ姿勢だった。
日本國政府は否定するがインターネット内も監視されていた。公殺に否定的な記事や投稿はことごとく削除されていた。
公殺法施行の頃、早川琴美は町田でOLをしていた。
そして水谷誠は琴美の職場に出入りする他社の営業マンだった。
水谷が周囲の目を盗んで琴美を食事に誘ってきたことがきっかけだった。
真面目で奥手で、退屈そうな男だった。おまけに水谷は十二も年上だ。とても交際の相手として見ることはできなかった。
しかし何度断られても懲りずに誘ってくる水谷に根負けした。
公殺法が始まって半年ほど。恋煩いの果てに相手を公殺したという話も度々耳にする。あまり断ってばかりだと逆恨みで殺されてしまうのではないかという不安もあり、ひとまず食事の誘いを受けた。
予想に反して水谷との時間は楽しかった。垢抜けないところはあるものの、その分誠実に思えた。同年代相手とは異なる話題や知識の交換も新鮮だった。気が付けば男女の仲になっていた。
格別稼ぎがいいわけではなさそうだが、賭け事は一切やらない倹約家で多少の貯えはあるような口ぶりだった。二人でいる時に出費を惜しむ様子もなかった。
会うのは決まって平日の夜。仕事帰りに待ち合わせて食事や映画を楽しんだ。
そのうち一人暮らしの琴美の部屋で過ごすようになる。水谷が実家暮らしだというので自然とそうなった。
「土日もお客さんにいつ呼びされるか分からないから」
「呼び出されるまでのデートでもいいじゃない」
「中途半端だろ。映画を途中で観るの止めるみたいで気持ちが悪いよ」
そんな理屈をこねる。
はじめのうちはそれも生真面目な性格だからだと思っていた。水谷の会社は機械などの輸出入業務を代行している。海外の顧客から曜日や時刻を問わず様々な連絡が入るのだと言われれば信じもした。
取引先の人間である琴美とつきあっていることを知られると具合が悪いので、二人の関係は当分誰にも秘密だと釘を刺されていた。
しかたがないと納得していても、そんな状態が半年以上も続くと不安になってくる。
もしかしたら他に誰かいて、休日はその女と会っているのかもしれない。
今年二〇一二年の三月、ホワイトデーも近いある日の仕事帰りに琴美は街で偶然水谷を見かけた。宝飾店でネックレスを買っていた。琴美は自分へのプレゼントだと嬉しく思い、知らぬふりをしようと決めた。声をかけることなくその場を去った。
しかしホワイトデーを過ぎても、いっこうにプレゼントを渡す気配がない。
「ホワイトデー、まだもらってないんだけど?」
「ごめん、忙しくて準備できないんだ。この前行きたがってたお店で食事するってことでいいかな?」
素知らぬふりで催促すると、水谷は少し面倒くさそうに答えた。
疑いの針は確信へと大きく振れた。
裏切られた怒りと、捨てられるかもしれない焦りと、他の女に負けた屈辱と、それでも誤解なのだと信じたい未練と――それらがせめぎあった末に琴美はある毒薬を少しずつ、少しずつ水谷への料理に混ぜた。