プロローグ
二〇一〇年八月。
「あっつーいぃ」
「オレはもっと暑い。プラスきつい」
明日美が溶けたような声を出すと、智朗は振り向きもせず、疲れ顔が見えるような声を返す。
智朗がペダルを漕ぎ、明日美は荷台に横座り。夕日の色を帯び始めた田舎道を二人が乗った自転車がゆっくりと進んでいく。
八月。夏休みだが、進学校では一年次からみっちり一日がかりで補習だ。
その帰り道、二人とも自転車があるのに智朗は明日美の自転車に二人乗りで最寄り駅から彼女を家に送っていくと言いだした。
送ったあとに一人歩いて駅に戻り、自分の自転車で家まで帰るという。無駄としかいいようのない行動だが、今日はそうすると言い張ってきかない。
明日美の家はこの田園地帯を抜けた先にある果樹園だ。ここはほぼ平地だが、もうすぐ緩い坂道になる。
お世辞にも体力があるとはいえない智朗の制服のワイシャツが汗で透けている。
(ここまでしてくれなくてもいいのに)
明日美は呆れるが、その理由が想像できて可笑しくなる。
昨日、一緒にアニメ映画を借りて観た。クライマックスで両片想いだった中学生の少年少女が二人乗りした自転車で坂道を上っていく。
邦楽や邦画で名作とされるものに食わず嫌いな智朗は――
「そんなにアニメっぽくなくていいかも。音楽もまぁ良かったし」
いまひとつ可愛げのない感想を述べただけだったが、さっそくこれだ。我が強いくせに、けっこう影響されやすい。子供っぽいというか、かわいいなと明日美は微笑ましく思う。
ひょっとしなくても、劇中の二人が少し自分たちに重なると感じてくれたのだろう。
ふと、夕方に似合う蝉の音に気づく。
「あ、もうアレが鳴いてる」
「アレ?」
「蝉。ほら、なんだっけ、夕方蝉みたいな」
智朗は耳を澄ますまでもなくすぐに気づく。
「ああ、ヒグラシな!」
「それそれ!」
「夕方蝉って」
ツボに入ったらしい。大ウケして笑う智朗。その背中を明日美がむくれて叩く。
「これも智朗くん的には”吠えてる”?」
智朗が言うには蝉は”鳴く”のでは”吠える”のだそうだ。
「うーん……なく、かな。”cry”の泣くに近いかも」
「ふーん」
変な子だな、と明日美は改めて思う。親しくなってもうすぐ二年だが、今だにちょっとした行動や会話が予想外で面白い。
「アレは”吠えてる”」
智朗がむこうの木を指差す。その方向からヒグラシとは違う猛々しい蝉の声がしていた。
「吠えてるねー!」
「だろ!」
明日美が納得してみせると、智朗は自慢げだ。
こういう会話も楽しいが、明日美はできればもっと違った話もしたかった。
あの映画の少年は高校には進学せず、楽器作りの職人になる夢を叶えるためにイタリアへと旅立つことになっている。
「ねー」
「なに?」
声をかけると、息を切らしながら智朗が応える。
「進路希望、なんて書く?」
「とりあえずテキトーに。今から決められないって」
「だよね」
「うわ、他人事だなー」
振り向いてからかう智朗に明日美は顔をしかめる。
「だってわたしの方がもっと決めらんないし」
「だよな。ごめん」
智朗は前に向き直る。
来月のはじめに明日美は家族とともにイギリスへ渡る。父の海外赴任についていくのだ。
期間は未定。大学受験までに明日美だけでも戻ってくる予定になっているが、未確定なことが多過ぎる。先日進路調査の紙が配られたが、明日美は提出することなくイギリスへ行くことになるだろう。
「智朗くん、第一希望は?」
「だからぁ、まだわかんないって……」
「武道館? ドーム?」
明日美がおどけて訊ねると、智朗は「えっ」と小さく驚いたきり口をつぐんだ。ためらっているのが背中越しにもわかる。
智朗の夢はきっとミュージシャンだ。
夢みていても、そんなことを公言する子はなかなかいない。面と向かってだろうが影でだろうが、否定されて笑われるのは辛い。
それでも明日美には教えてほしかった。笑ったりなんかしない。
いつかは話してくれると思っていたが、イギリスに発つ前に聞きたい。縮められる距離はどんなことでも縮めておきたい。それでつい遠まわしな質問をしてしまった。
「んー、さすがに高校のうちにそれは無理だろ」
一瞬振りむいた智朗の顔が赤い。暑さや自転車のせいだけではないだろう。
「それじゃメジャーデビュー?」
「高校生でメジャーデビューっていかにも話題先行で将来なさそうだろ。やっぱデビューするなら二十は過ぎてないとなに歌っても説得力ないっていうか……」
「そういう心配する前に曲書いたりしなきゃでしょ」
ツッコむと智朗は「そうだな」と気持ちよく笑った。
まだギターを買うお金を貯めている。デビューなんて口にするのも笑われるくらいだ。
それでも智朗は約束した。
「帰ってきたら聴かせるからな。待ってるからな」
前をむいたままの智朗。耳まで真っ赤だ。
結婚しよう、よりも智朗にとっては大事な約束だろう。
明日美は飛び下りると、あの映画のように荷台を掴んで押した。
不意打ちに軽くなったペダルに智朗は慌て、自転車は蛇行する。
「ちょっ!」
「ははは!」
智朗の悲鳴と明日美の笑い声が蝉たちの声と混じり合い、平和に響いた。
二人はふざけ合いながら、坂道を上がり始める。
二年後――
「智朗くん、大学どうするの? もう希望進路とか出した? 第一希望は?」
明日美の問いに智朗は小さく鼻で笑った。少し考えて、こう答えた。
「第一希望は刑務所、第二希望は火葬場、かな」
「えっ……」
絶句する明日美。
本当に意味がわからない。何を言っているのだろう。
人が変わってしまうのに、この国の二年間は充分過ぎるのだと明日美は思い知らされた。
後出しですが、プロローグを追加しました。
元々は全く違ったプロローグを書いていたのですがそれをボツにして、そのままプロローグ無しとなっていました。
やはりなんらかの導入部はあった方がいいかなと思い始めた頃に筏田かつらさんの作品を拝読して、明るいノリの明日美と智朗を書いてみたくなりました。
作中のアニメ映画がなにか、説明するまでもないでしょう。大好きな作品です(なかなか口にはだせませんが)
実在作品に寄りかかった場面もどうかと思いもしましたが、とっくにジャッジを受けた作品(『吠えない蝉』)ですし、こういうのもアリかなと。オマージュだと受け取ってもらえれば幸いです。