月子 2
小学4年生のその頃、私は小さなそろばん塾に通っていた。
ぱちぱちと小気味良い音を立てて球を弾くのは、ただ楽しかった。
玩具で遊んでいるようで、何桁にもなる計算をの答えがあっという間に出るのは爽快だった。試験のときは速さと正確さを競うゲームに挑んでいる感覚だった。
楽しくて週に何回も通っていると、順調に腕も上がって行く。そして年に一回の地区の大会に初めて出ることになった。
大会は、市の商工会議所で行われた。級は関係なく参加者全員でどんどん難しい問題をやって、一定時間内に何点とれるか、といったもの。格闘技なら無差別級とでも言うのだろうか。
私は、いつも練習していたときよりちょっとだけ良い点を取って、キャラクターノートを景品でもらった。
初めてのバスに乗っての遠出と、良い成績を出した満足感、おまけにおみやげまでもらって、少し浮かれていたのだと思う。
帰り道、気がつくと、同じそろばん塾から大会に来た6年生たちが、急にバスを降りようとしていた。
どうしたの? なんでこんなところで降りるの?
動揺してただ立ち竦んでいると、横からすっと手をとられ、私も降り口へ引っ張られる。
山内三香だった。
「乗り間違えたんだ。早く降りないと」
早口で言い、料金を支払う。私も財布を引っ張り出して支払い、バスを降りた。
見たことのない場所だ。大通り沿いではあるが、どこへ向かっての大通りかもわからない。
地名を見ると、そろばん塾や学校、家のある地区よりもかなり南であることはわかったが、実際どれくらい遠いのかは全くわからなかった。
6年生たちは私を待たず、先へ歩きだす。彼らは帰り道がわかるのだろうか。
何も言わずに、ちらっとこっちを見ただけで、さっさと歩いていく。乗り間違えたとも、付いて来いとも言わない。
多分ばつが悪かったのだろう。彼らだってたかが小学6年生。不安もあったに違いない。
今ならそう思えるけど、そのときの私は、素っ気無い上級生の態度にどうしたらいいかわからず、急に心細くなった。
だが、ついていくしかない。もう持たされたお金はほとんど使ってしまったし、お金があったとしても、ここからどのバスに乗れば帰れるのか、さっぱりわからない。
私の考えが追いついて、歩き出すより早く、また手が引っ張られた。
三香は、まだ私と手をつないでいてくれて、行こう、と声をかけた。
ほんの少し、不安に冷えていた心があたたまる。
行こう。私も言った。
どこをどう歩いているのか、知らない町の景色が続く。見たこともない家並み、店先、公園。
先を歩く6年生たちは、時々止まって相談しているようだったが、私と三香が追いついて立ち止まるより先にもう歩き出す。
自分が世界のどこにいるのかもわからないまま、ただ、三香と手をつないで、歩く。
お父さんもお母さんもそろばん塾の先生も、大会帰りの小学生たちがどこをどう歩いているのか知らず、はじめに言われたとおりのバスで塾の近くまで帰ってくると思っている。
そんな不思議な、ほんの少し不安で、少しばかり冒険の、帰り道。
三香と私はずっと手をつないでいた。
今はもう何を話していたのかも覚えていない。だがその少しだけ汗ばんだ手のひら、篭る熱は、今でもじんわりと私の心をあたためる。その熱が、わずかに夕焼けがかった空と、知らない町並みと共に記憶として焼きついている。
懐かしい、あの風景。
いつまでかかるともわからない道を、本当に帰り着けるのかどきどきしながら、私は三香と歩いた。
どれくらい歩いたのだろうか。知らない町並みはやがて知っている町並みにうつっていき、場所の見当がつくようになり、私たちの通うそろばん塾まで、何とか歩き着くことができた。
6年生たちは私たちを振り返り、その存在を確かめてほっとした顔をする。無事下級生を送ることができて安心したようだった。
私と三香はずっと手をつないでいたけれど、大会の後、しかも予想しない距離の歩行に皆疲れていたし、やっと帰ることができた安心感に気が抜けて、誰もからかったりしなかった。
三々五々、皆が自宅へと散っていく。
ここから私の家まではちょっとまだ十分くらい歩くけれど、三香の家はすぐ近くだ。もう手を離さないといけない。一緒に帰って来た6年生たちはからかったりしなかったけれど、この近くに住むクラスメートにでも見られたら、大変なことになる。
でも私は手を離さなかった。
困ったように三香は私を見る。
結局、三香も手を離さなかった。
三香の自宅のあるマンションの前まで、私たちは手をつないだまま歩き、そこで別れた。
その時、ほんの少し、三香が私の特別になった。




