10:血統書の汚れ
今でも覚えてる。
色街、花街、言い方は色々ある。淀んでいながら、濃厚な甘さを含んだ空気を持つ、独特な俗世から隔離された世界。
母親は没落貴族だった。
一時は国王の正妃候補にまで上がるような美しさと、そこそこの位を持つ貴族の令嬢だったらしい。
だけど、そんなものは長くなんて続かない。
私は原因を知らないけれど母親は娼婦へとその身を落とし、散り散りになった一族なんて行方も分からない。
国王は、娼婦となった母親に客として会いに行っていた。
私が九歳になって少し経った頃、母親は病気にかかりあっけなく死んだ。当時、私は娼館の下働きをしていて、このまま娼婦になるんだろう、と幼いながらに全てを諦めていた。
そんな私を拾い上げたのが、私の父。今のグレンツィアの国王。
城へと招かれた。正式な王女として。国王の実子として。
王妃や側室が生んだ四人の王子たちの反応は様々で、唯一私より年下だった末の王子だけが私に対して友好的。
側室は私を蔑むように睨んでいた。
王妃は冷静だった。誰よりも。そして、私に対しても平等だった。その腹の内でみた事もない私の母への嫉妬と私そのものへの憎悪の念を育てながら。
私が十五になった頃には、しっかりと母親の美貌を受け継いでいて、父は私に対して奇妙な感情を見せるようになった。
娘として愛おしく思う反面、私の中に母親を想い浮かべてはまるで異性を見るかのように。かと思えば、自分を誘惑する悪い女、と私を憎み。それでも母親の容姿を色濃く受け継ぎ、その存在を思い起こさせるただ一人の人間を憎みきれない。
王妃は私への憎悪を隠さなくなった。
*****
「お久しぶりでございます。シャルロット様」
城の中庭。薔薇が植えられ、それが庭を迷路にしている。普段は恋を求める男女の運命的な出会いを演出しているそれが、今は私達二人を覆い隠す。
「我が国の穢れでありながら、結構なことでございます。……エルヴィン殿下ではないにしろ、国内外にその名をとどろかせるほどの騎士殿に嫁がれたのですから」
不思議だと思わない?
私の母は、貴族の令嬢で血筋では穢れなんて一点もなかった。なのに、娼婦に身を落としたその瞬間から、その血筋は穢れと呼ばれる。流れているその血に変わりはなくても。
所詮、私たちは肩書の上に生きているのよね。肩書が美しくなくなれば、その血に価値は無くなるの。
肩書きが血統書となってその身の高貴さを保証する。
「そうね、私にはもったいないくらいの方よ」
そう言って、自分を卑下する私の思考はきっと根底からグレンツィアの思考に染まっているわ。王の娘という肩書に合わせてふるまう一方で、娼婦の娘という肩書に自嘲する。なんて矛盾した存在なんだろう。
「その通りでございます。そして、我が主は申し訳なく思い、同情しているのです。貴女様のような方を妻に迎えなければならなかった方を」
侍女は哀しそうな笑みを浮かべた。
決して言葉には出さない。けれど彼女が思っている事はわかる。
本当は国王には歪んだ愛憎を抱く私を一生城から出すつもりが無かった。それは王妃の心をかき乱した。
今回の婚姻は王妃の陰謀も少なからず含まれているのでしょう。
「貴女様はグレンツィアから遠く離れたにも関わらず、いまだに我が主の心を煩わせているのです」
もういいでしょう?
侍女は涙を浮かべていた。あの王妃の何がここまで彼女をひきつけたのかは知らないけれど、彼女にとって、王妃は自分が手を汚してでも守りたい存在なのね。
うらやましいと純粋に思う。私には、ここまで私を大切に思ってくれる人などいないから。
「穢れた血の貴女様の存在に怯える我が主が不憫でならないのです」
私は欠陥品なのに。
そんな私をひどく気にするのはきっと本当に国王を愛しているからなのだろう。そこまで考えて、それほどに誰かを愛することができる事をうらやましく思う。
娼館にいた頃の自分を忘れることは一生ない。それが私の血統書だから。
国に国民に認められた地位を持つ、下層から這い上がったニコラウスを尊敬する。だけど、私は私の血筋故にきっと愛せない。
初対面のときに私はニコラウスを下に見て、憤慨していたけれど。
本当につりあわないのは私のほう。
「さようなら」
侍女が懐から何かを取り出した。
月光に鈍く光るそれは、おそらく短剣の類。私を殺すためのものだろう。
ふわり、と風が頬をなでる。
その風に乗って、侍女からはあの香水の甘いにおいがしている。
(死んでもいい)
穢れと呼ばれる私を忘れたかったのかもしれない。だから、この婚姻に文句をつけつつも反対しなかったのかも。
(もう少し、ニコラウスと一緒に過ごせるように、私自身も努力すればよかったかも)
つりあわないから愛せない。
そう思ったばっかりだったのに。
最期のときに想い、浮かぶ人がニコラウスなのが不思議だった。