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アストリネの一族  作者: 廻羽真架
第二章. 落陽の果て、蒼穹に嵐吹く【ルド】
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航海《a》の果て

ヴァイオラ=アルデが、束ねた髪を触手で絡めるように紐解いていく。

纏う薄緑色の手術衣も取り払い、不要になったものを畳む。

それら全てをすぐ近くの机に置き、拘束された者に歩み寄る。

瞼を振るわせ徐々に開くという覚醒の兆しを覗かせたシングドラの目の前まで、近づいた。


「彼女を殺さず、奪う真似をした理由は?」


緊急処置を施したアルデからすれば、前者の方がまだマシな結果と言えるのだ。

より残酷な選択を下したシングドラを強く非難するよう、揺蕩う黄金の月が灯る桜色の瞳は冷厳に据わっていた。


「……ハッ、」

強烈な毒に蝕まれながらも、声が聞き取れたのだろう。

シングドラはゆっくりと顔を上げ、肩を揺らし笑うのだ。


「嫌い、なんだよ。ああいうガキが一番ムカつく。未来を信じてるなんて綺麗事の塊を吐く様が、やたら鼻についた」

唾ごと吐き捨てるような嫌悪感を剥き出しに晒し、全てが気に入らないと明示する。

だから、朝海には慈悲ではなく、明確な悪意をばら撒いたのだと、血色悪い舌を出して中指を立てた。


「これは、教育的指導さ。周囲に憐れまれるような立場に落ちてでも、同じことほざけるんなら、マジもんの、馬鹿だろうよ」

そうできるのなら真正だ。誇れるべきことだろう。甘ったるい考えと偽善が嫌いなシングドラとしても、溜飲が下がる。


「それでようやく、『平定の狩者』として、様になる。頑張れんじゃねーの。……戻れなくもなると思うけどな」

傲慢不遜な態度を下劣に晒し切った後に、「くはっ」と肩を揺らして笑うばかりだった。


――一方、アルデは情が抜け切った真顔のままだ。不動の姿勢で微動だにしない。

「………」

淡色の紅で色付く唇が、僅かに開く。直ぐに鉛のような短い息を吐いた。


「ねぇ、シングドラ。そんな捻くれたあなたに()()()たる私から、この言葉を送るとしましょう」

心内は憤怒に満ちており、抑揚ない声が淡々と紡がれて剣呑さを携えた桜色の瞳を瞠らせて。

地を這い蹲る蝙蝠のすぐ眼前にて、ダンっと強く床を踏みつけた。


「いい歳して女の子を道連れなんてみっともない。堕ちるならあなたひとりで、堕ちてなさいな」



ヴァイオラ=アルデはイプシロンの治療を行うために『イーグル』へ赴く。

その予定で話が進んでいたはずなのに、なぜか今、彼女はこの『ピーヘン』に居て。

――撃たれた朝海の治療に当たってるという。


現状を聞いた吏史は、己の処置を終えるや否や、休む間もなく飛び出す。

痛む体を顧みず、道を駆けた。


「少年!まだ動いたらダメだって!肋骨絶対折れてるよ――って早ぁ!?」

慌ただしく後を追いかけるイアンを、俊敏な動きで置いて。


それから目的地までは数十秒も経たない。吏史は部屋の扉前まで到着する。

番をするよう佇むベガオスを見かけたが、挨拶を交わす馴れ合いに興じず、無視をした。


「ッ!?おい、お前……っ!何をしてる!今御二方が……ッ話を聞け!!」

ベガオスが突然の来襲に声を荒げて前に立ち遮ってくるのを、肩を掴んで強引に払い除ける。


そうして吏史はバン、と殴り破る勢いで扉を開く。


部屋には、話し合うヴァイオラとフリッドの姿があった。

先まで着用していたのだろうか、赤が滲む緑色の薄布を畳む作業も併用で行ってるらしい。


「え?ちょっと!何いきなり入ってきて…」

しかしフリッドからすれば、それは突然の来襲だ。

吏史は招かざる客である。彼女は慌てふためきつつも、吏史を部屋から追い出そうとした。


だが、ヴァイオラが鴇色の触手をフリッドの口元に伸ばして発言を遮り、自らは吏史に近づく。


「お久しぶりですこと。私の愛弟子」


身長差は歴然、十センチ以上。上目に向けられる桜に浮かぶ陽光の輝きを、吏史はただ、見下ろす。


「っ……ヴァイオラ、なんで!」

発言の途中で、鴇色の触手が吏史の唇を塞ぎ、覆う。


「貴方が仰りたいことは概ね理解しております。……私がこの場に居る理由は、早急に貴方の力が必要になったからです」

緩やかに目を細め、囁くような声調でヴァイオラは誤解を解くための理由を紡いだ。


「グラフィス様が所有する兵器。……その改良が、何者かの手によって完成しましたの」

鴇色の触手を蠢かし、己の横髪を払い除ける仕草と共に、意を明かす。


「『古烬』創立者にして象徴であったシルファール。アストリネとその種を一掃せんと図って手掛けられた、陽黒とは異なる究極的な文明破壊機。“最終兵器”と呼称すべき代物です」

それは世の平定を成すのであれば、必ず壊さなければならないものだと説明を施す。

やがて鴇色の触手が下がり、吏史の胸元を軽く小突く。


「そのような事態になった場合、私が優先してあなたと共に対処するよう……イプシロン自身に託されております。――だからこそ、私が此処にいる」

この説明を以て、『平定の狩者』の重要指令が下されたのだ。


「………ッ、」

戦慄く行為すら咎めるように、ヴァイオラは淡々と紡ぐ。

「そして、あなたもその役目を果たさねばなりません。どれだけ複雑な想いを抱えても、自我を抑制し進まねばならない。何故なら、あなたは『英雄』だから」

逃げることも許されず、困難に向き合い立ち向かわねばならない。それが責任だと声は優しく説いて、弱みを握り抑圧を掛けていく。


「名の責任を背負うとはこのこと。……わかりますか、私の愛弟子。あなたは最早、不自由な存在。――朝海さんやイプシロンという我儘を捨て、自らの役目と向き合いなさい」


制限をかけたヴァイオラの発言に、吏史は沸き立つ複雑な思いごと奥歯を噛んで、強く拳を握り締める。

行き場のない感情に身を震わせて、異色の瞳を歪ませた。



数刻前。

第一区『イーグル』最上階――『門』前にて。


扉以外は何もない、八角形状の部屋だ。無の空間と例えるに相応しい場所である。

その中央から青色の電磁波が生まれ出した。

油膜にも似た薄い壁は、空間を呑むようにも広がっていく。

何に繋がるかもわからぬ摩訶不思議な空間の亀裂ではあるが、これもまた、次元を超える転移手段『門』の形。


そして【ジャバフォスタ】の代表管理者グラフィスが、『門』から一歩踏み出すように現れた。


彼女が纏う夜海の漣めいたドレスが揺れる瞬間――。


開幕の狼煙を上げるように碧風を起こす黒鷹が、何処からともなく舞い降りた。


巨体に見合わぬ軽やかな動作を以て、ディーケは音もなく着地を果たす。

翼のように広がった黒の外套が、重力に従い緩やかに降りている。

あとに、体勢を整えるための予備動作や、無駄な隙も見せることもない。

すかさず、己の身の丈以上ある鉄槌にも似た巨大な槍『アポローン』を構え、グラフィスの眉間に切先を突きつけた。


拍子で裂かれた風が吹き、彼女の目元まで纏う黒のヴェールが大きくなびく。

それを、据えた珊瑚色の瞳が映していた。


「大人しくして、貰おうか。ここで……暴れられると、面倒だ」

冷静かつ事務的。淡白にして容赦なく、処刑人じみた雰囲気を纏うディーケは刻々と告げる。


「貴様に異能は使わせない。妙な真似をするならば、即座に……オレが粉砕する」

宣言の後、控えていたネルカルが背後から足音を立てて現れた。

「逃げられると思わないでねー?本気、だからさ」

ネルカルは片手を上げる。

近くで控えていた兵士たちが指示に応え、グラフィスを一定間隔を開けて円状に並び囲う。

同時に各々が所有する武器を構えており、その切先を全て、グラフィスに向けた。


――まさに、逃げ場なしとはこのことだろう。絶望的かつ錚々たる光景と言える。


「……熱烈な大歓迎だね」


それを前にしてもなお、グラフィスは動じない。

まるで子供の悪戯を見守る母のように。慈愛の笑みを浮かべては、『アポローン』の槍先を指で突っついていた。

「理由を、聞いても構わないかい?」

「…………随分と呑気ですこと」

悠々と質問すら行うグラフィスにネルカルは不快を表すよう顔を歪めるが、直ぐに切り替えるよう、固く結んでいた口を開く。


「もう、平和的に解決できるほど時間も信用もないからだよ。……あのさ、グラフィス。さっさと話してくんない?いったい何を隠してるのさ。残した兵器は本当に残り三体?『平定の狩者』再結成で反対せずに推進した理由はそれが絡んでるわけ?もしかして、『リプラント』から破壊しようと名指しで提案した理由は先んじて暴走が見えてたからなの?」

「おやおや。多いな、質問が」

「これの十倍は問い詰めたいくらいだよ」

「そうか……」


高圧的に捲し立てるネルカルに対し、グラフィスは揶揄うようにクスリと笑う。

「随分と、堪え性のない子に育ったものだ」

夜の帷を彷彿とさせる黒布のヴェールが、嘲るようにも揺れていた。


「………話、逸らさないで。即決の行動が求められてるからって言ったよね?これ以上無駄な我慢し続けて、自国の民を兵器騒動や陰謀に巻き込んで危機に晒すわけにはいかないんだよ」

「言い方が悪いよ、ネルカル。私は弱き者を危険に晒すつもりは毛頭ない。……でも、危機が来ると憂があるのならば……【ルド】の管理権も私に譲ってくれないかな。そうしたら、この国もまとめて救ってあげれるんだ」


あまりにも巫山戯た申し出だ。

ネルカルは片眉を釣り上げ、不快感を露わにした。

硬く組んだ腕先の指が動く速度も早まって止まらない。


「……何を、どうしてって……具体的な手段も知らないのに、はいどうぞお願いしますーって無責任に頷くわけないでしょ。……そもそも、大事な国全部任せられるほど貴方に信用もない」


受ける必要もない申し出だときっぱりと明言し、ネルカルは碧眼を平らに据えていた。


「……というかさぁ、さっきからおちょくってるよね?」

「ふふっ。どうだと思う?」

この問答を経たネルカルはグラフィスの意図が大方読み取れてしまい、唇を歪めて奥歯を強く噛んだ。


「先の質問も冗談かもしれないな。或いは本気かもしれないだろう。さて、お前は三十代目ネルカルとして、どう判断するのかい?」


――間違いない。なんて、確信を内心で抱く。

グラフィスは鼻っからネルカルとの会話を成り立たせる気もないのだ。

ある意味で、眼中にないという示しでもある。


この対談が自体双方の合意があってのことのはずだ。その前提で考えれば、自ずと一つの答えへ到達できる。


「……へー?対談なんて始めっからやる気なくて、別の目的があるからノコノコやってきましたーって感じ?」


ネルカルの返しにグラフィスは何も答えない。

ただ、甘く柔らか、嫋やかに。慈愛の笑みを浮かべる。


「さあ?それは、どうなんだろうね?」


間を置いてから返された言葉まで、取り繕うことなく舐め切った態度を晒すばかりだ。

新手の挑発行為同然だろう。

「……あっそ。とにかく此方の質問には答える気もないってわけね」

徐々に積もる憤怒の昂りを抑えるように、ネルカルはため息を吐く。

挑発を受けても余裕であると表すように片目を瞑る。

「何を根拠にしてこの状況下で自信たっぷりに笑えるのか、全然わからないけどさ。………ちゃんと見えてないの?」

人差し指を立ててから、周囲を軽く指し示す動作に合わせて指摘を行う。

「……もしかして盲目だったりする?」

現在、グラフィスは絶体絶命に等しい。

ディーケを筆頭として、ネルカルや選抜された十人以上の兵士に敵意を向けられる状況だからだ。

それなのに当のグラフィスは恐れなく、こうして小馬鹿にするような態度を晒している。


「ずーっと態度、よくないよ?【ルド】の民は強さを重きに置いてるんだから。侮りは私たちの気に障る」


――兵士十人を始めとして、争いそのものに積極性がないディーケですら精悍な面持ちを歪めてしまうほどまでに。


「……グラフィスの姓をここで終わらせたくないならさ。緩んだ姿勢と態度からやめてくれない?」


着実に、グラフィスは周囲の怒りを買っているのだ。

こうして冷静に指摘するネルカル自身も沸き立つ激情抑制はしてるとはいえ、紡ぐ声は自然と地を這うように低くなっている。


「それとも何、手荒い歓迎がお望みかな」


――そうして空気は張り詰めていく。鉛のように重苦しく、呼吸困難すら起きそうな程までに威圧と敵意が満ちる。


「…………」

しかし、そんな空気を引き裂くように。不意に透明な雫が落ちた。


「――――……っな、…ん!?」

それを視認した兵士たちはどよめく。

「…は?」

「……?」

ネルカルは怪訝そうに片眉を顰め、ディーケは無言で瞬きを繰り返す。

目の前で起きた現象に対し、総じて理解が追いつかない。


――グラフィスの目元を覆う黒のヴェールの隙間からは、透明な涙が伝い落ちていた。

涙は絶え間なく滴り、地面を濡らし続ける。


「………え?いや、ほんと……は?何……?」

ネルカルは困惑を覚えて頭を振った。

急に泣かれてしまうのは、気分が良いものとは言えない。寧ろ自身が悪いと責められたような錯覚に陥り、居た堪れなさで渋い顔を浮かべてしまう。


「ああ。失礼したな。これはたまに出てしまうものでね。いうなれば、欠伸みたいなものなんだよ」

謝罪と説明を交えたグラフィスは、顎へ伝う涙を指先でなぞり拭った。

「偶に出てしまうんだ。偶に、ね」

頬に手を宛てて理由を語るが、どこかしら申し訳なさそうで、忸怩たる思いを現すように掠れている。


「……そ……。ま、正直……驚いたかな。グラフィスってさ、泣けたんだね?不気味に笑う以外の感情は失ってると思ってたよ」

「そう言われると、何だかむず痒いな」

「別に褒めてないけど」

「おや、残念。褒めてくれてると思ったのに」


そうした会話を交わした後、ネルカルはバツ悪くなった心地を捨てるように溜息を吐く。

「まあ、妙な空気になってしまったけど……まあいいや」

切り替えるようにも、粛々と次なる動作へ向かう。


今度は明確に立てた人差し指でグラフィスを指し示して、ディーケ達へ命令を下す。


「『案内して。お気に入りの地下水を用意した場所へ』」

それは『牢に搬送する』という暗喩でもあった。

遠回しにした理由は、HMT越しの記録として残さないためである。

のちに大きく非難されないための手段とも言えた。


「……じゃ、好きなだけ飲んで、ゆっくりしていってよ」

そんなネルカルの指示を受けた一人の中年兵士が槍を下ろし、懐から白の小箱を取り出す。

「……失礼します」

謝罪を交えてからグラフィスに近づき、片手に持った小箱を手首に近づける。


小箱は体温を感知してか、自発的に変形を始めた。


組み立てブロックが崩れゆくように箱から形状を変えて、砂の様にグラフィスの手首を覆い尽くす。

無数の正方形は次第に、手錠を構築した。

数秒後――鍵穴がない金属の塊がグラフィスの手首に掛かり、自由を奪うのだ。


「着け心地はどう?特殊な金属を用いてる手錠なんだよ。電磁の発生も防ぐし……水も通さない。『門』を扱う権利を持って水を操るグラフィス専用だといっても過言じゃないものなんだよね」

「…ふむ」

説明を聞いた上で、敢えて行使を試みるのか。グラフィスは己の掌を広げてみた。


――しかし、何も起きない。


「……なるほど。【ルド】の技術力も、完全に捨てたものではないな」

封じられたというのに、工作の出来を褒める親のような声調でグラフィスは微笑む。

その柔らかな態度がまた、ネルカルらの気に障って仕方ない。誰かしらの眉間に皺が刻まれてばかりだ。


「……ま、気に入ったのなら良かったさ。好きなだけ見ていってよ」

とはいえ、ネルカルはこれ以上表立たせることない。目的遂行を優先し、更なる宣告を紡ぐ。

「『案内して。一際静かな無風の場所に』」

合図を受けたディーケや兵士達は一斉に武器を下げ、グラフィスを連行し始める。

錠の掛かった手をぎこちなく動かすグラフィスに構うことなく、肩や背を押すように進むことを促した。

「……エスコートとしては、三流以下だな」

そう呟かれるが彼女は対抗することはない。潮の匂いと共に、歩み始める。


――後は手筈通り、入牢されるだろう。

一段階を終えた実感で、ネルカルは少しの安堵を覚えて息を吐く。


結局グラフィスが何かを目論んでるのかはわからなかった。

ここまで大人しいのは心底不気味とはいえ、ある意味では都合がいい。何ならばいっそのこと半永久的に隔離して封じてしまうべきだろう。


後は、自分たちでどうにかする。吏史達が持ってくるレポートを頼りに『遺児』の鎮圧に移れば、事態解決も成せるはずだ。

民に危機が及ぶような表立った事件には、決して発展しないだろう――。


「――――おい!?お前何を…」

困惑。動揺。それらが交錯して入り混じった男の怒声が空気を破る。

弾かれるようにネルカルが振り向けば、碧眼が瞠目した。

「……ッ!何をしてる!?」

劈くように叫び、突然の暴挙に出た者達を糾弾する。


死角からの攻撃に反応できたとはいえ、首を庇った片腕を刀で斬られ傷を負ったディーケの片眉が吊り上がり歪んでいた。


これは決してグラフィスが下した攻撃を受けたわけではない。彼女は、既に拘束された状態から何も変わってないのだ。


だから、これは、ディーケの隣に並んでいた若き女性兵士が起こした反乱だ。


「自分が何をしたのか自覚して…!」

「あ、ぁ、ネルカルさ、ま。ディ、ディーケ様、っ、違う、違います、これは、あたし…っこんなつもりは…っ!」


糾弾された女性兵士は顔面蒼白で身を戦慄かせ、辿々しく言い訳を紡ぐ。しかし、赤く濡れた半月状の刀は手放すことはなかった。


「終わる、もう、終わってしまうから。だから、あたし、せめて、ディーケ様、あなたさまと、一緒に、いきたくて、……っ」

その支離滅裂な言動から、ネルカルは推察できた。

彼女には今しがた自身が何をしたのかも、口走る言葉もまともに理解できてないのだろう。

何せ顔色は悪いどころではなく、目は焦点が合っておらず、瞳孔が開き、仕切りなく揺れてる。

どの方向から俯瞰して見たって、正気ではない。


「ッ……!」

ネルカルは息を呑んで口を閉ざす反面、斬られたディーケは片目を眇めた。

そのまま動揺に飲まれることはない。

即座に、即決で解決すべく鎮圧に身を動かす。女性兵士の武器を叩き折ろうと、拳を振おうと腕を引いた。

「――!」

しかし、ディーケは拳を振るえない。背後から迫られたものを裏拳で、弾く。

―――ガキン!と強い金属音が鳴り響いた。


頸を狙ってきた中骨の男性兵士が持つ細剣が弾かれる。

また別の兵士に斬りかかれたことに珊瑚色の瞳が開くが、この程度でディーケは止まらない。

もう片方の手を己の死角へ伸ばす。

「…っきゃ!?」

問答無用で掴み上げれば、短い悲鳴が上がった。

悲鳴の主たる鉈を振り上げていた髪を束ねた女性兵士の手首を掴み捻り上げて、床へ叩きつける。


「何の、真似だ?」

最早、三方は許されざる裏切りを果たしたも同然だ。非難するように、ディーケは低く唸った。


「ちが、ちがうのです。これは…ぁあ…」

「終わりが、あるから。あるから、あ、ディーケ様。貴方様のために、わたし、わたし…っ」

しかし、兵士たちは揃いに揃って身を戦慄かせて、顔や声を引き攣らせている。

裏切りが本意ではないと、必死に体で示しているように。

それがより一層、ディーケには奇妙に思えて仕方ない。


「……っお前達!誰を攻撃してると思ってる!?」

現状は、ある意味で膠着状態だろう。


これ以上の悪化を阻止せんとネルカルが声を荒げ、両手を掲げる。

一部の兵士たちが急な裏切りを起こした理由を解明するのは後に置き、この場は異能での一掃鎮圧を図る。


―――だが、ネルカルから溢れるのは風ではない。

真っ赤な、血だ。


「――――…ッ゛!?……ッ゛、…!」


心臓を、的確に穿たれた。貫かれてしまった。

自身の油断と失態を、一拍後に自覚して、一気に熟した葡萄色の血が溢れかえる。

咄嗟に首を傾ければ、己が後ろに立つ犯人を視認できた。

「……ック、…ソッ…が、ぁあ゛……ネルカル様、申し訳あり、ません…っネルカル、様…ッ…!」

顔に血管を浮き立たせて苦悶の表情を浮かべる中年兵士、ラグダールだ。

彼の獲物である鋭利な槍が、ネルカルの胸部を貫いたのだろう。

「申し訳、ありません…っ」

謝罪を交えられながら、突き刺さった槍が無遠慮に引き抜かれていく。

ネルカルは反動で両膝を床につけて、崩れ落ちてしまった。

「…ッ、ぁ゛……」

荒い呼吸を、繰り返す。

暗赤色の体液が流れる傷口は、どうしてか。中々そう、簡単に塞がりそうにない。

手で抑えても意味がなく、弱々しく脈を打つたびに血が流れ続ける一方で、みるみるうちにネルカルが纏う純白の衣が赤へ染まりゆく。


このままでは、気を失い、塞がらなければ、死に果ててしまうのだろう。


「…ッ!」

死の予感を本能的に感じた後、奥歯を噛み締めて、奮起した。

まだ、ネルカルは終わってない。

血潮を奮い立たせんと胸部の傷を乱暴に掴み、全身の力を込めて立ち上がろうと、望む。


――――そう、すれば。

流れるような冷淡な声が聞こえてきた。


「……やめておけ。君の[核]は、俺の異能で抑えられている。再生がまともに働かないから、下手に動かない方がいい」


誰なのかをとうに理解してるグラフィスの笑みが深まり、何も気づけなかったディーケの唇が惚けたように僅かに開き、――ずっと、心の何処かで、勘づいていたネルカルは目を瞠り、やがて顔をくしゃくしゃに歪ませた。


「ネルカル、君は俺に心を寄せすぎてる。操作が容易すぎるんだよ」


指摘するような言葉を掛けて現れたるは金糸の青年。二代目イプシロン。

陽光灼きつく翡翠瞳を冷たく平らに据えて、混乱の場に足を踏み入れていた。


「おはよう、イプシロン。……何やら“事故”があったみたいだが……私のお手製目覚ましは効いたみたいでよかったよ」

何処か嬉しそうに語るグラフィスを横目に見るだけで、イプシロンは何も返さない。

その代わり、すぐ隣に並んだ彼女の手首を覆う錠に手を伸ばして解錠を行う。

ガチャンと金属音を立てて崩れ、錠の残骸が床に転がっていった。

「ふふっ、ありがとう」

――その行動も、ある種の明示。

ネルカルは歪めた顔を俯せ、歯を噛み合わせたまま俯いてしまう。


最早、否定しようもない状況だ。


意思に反してマリオネットが如く操られる人間たち、ネルカルの治らない奇妙な傷。

精神、或いは[核]への干渉も可能とするイプシロンの異能による光景ならば、随分と納得行く有様ではないか。


故に答えは、ただ一つ。

イプシロンが【ルド】へ反旗を翻した。そう、判断を下すしかない。


(監視も兼ねて置いていたメカリナンも、……イプシロンに倒されたと考えるのが、無難………)


咳き込みつつ、ネルカルは内心で決め打った。

彼女自身が年齢相応の手練れだとしても、実戦経験はイプシロンが圧倒的。

きっと、赤子を捻るように処理を済ませた筈。

その予感が正しいと現すように、イプシロンの翡翠瞳は研がれたナイフのように据わっている。

凍てついた白銀から情の温度なんて、感じられやしなかった。


「やはりディーケの操作は難しいかい?」

「ああ、無理だな。強靭な肉体に健全な精神が宿るのと同じこと。奴は心も鋼鉄に覆われている」

「そうか、なるほど。心寄せてるのはお前だけだと思っていたが……結局のところ、誰にも心を寄せてなかったのだな。――では、本来の計画通りに進めるとしよう」


淡々とした対話を済ませたグラフィスが動き出し、纏う夜海のドレスが波を立たせる。

「……!」

近づかれたディーケが異能を発揮しようと珊瑚色の瞳を瞠るが、輝きを示せない。

――この場で異能を使い、グラフィスやイプシロン共々鎮圧するのはディーケなら容易だろう。

しかし問題がある。自身に噛み付く兵士達が近いのだ。

もし(ブラックホール)を放てば、問答無用で彼女達を巻き込んでしまうだろう。


「異能操作は無理。下手な手段ならば即座に破壊突破されてしまう。だったら、君が下手に出れない状況で抑制するのが正解だろう?」

「………………っ、…………卑怯な、真似を……っ」

咎める言葉と睥睨を流すように、イプシロンは顎を軽く上げる動作で返した。


「っ、……ねぇ、ねぇ!初めから、裏切ってたの!?」

不意に、ネルカルから滲み溢れる疑問が落ちては、広がる。

今の彼女は正に瀬戸際。傷は治らず、失血死寸前まで追い詰められていた。

「……おしえて、よ」

だけど、どうしても。心を納得させるために無理してでも問わざるを得ないことがある。

自らの血に濡れながら、ネルカルはイプシロンに訴えた。


「初めからこうするつもりで――生まれた時から、ずっと。面倒、みてくれてたの?」

まるで、一滴の雨から決壊して驟雨が始まるように。少女の疑問が続いていく。



「私、わかってた。いつか、こうなるんじゃないかって思ってた。……ずっと…遠い場所を、見てたから」


“留めようとしても、必ず何処かに飛んで離れていくのだろう”

いずれ来るであろう未来の予感。漠然とした勘が、昔から確かにあったのだ。


だから、ネルカルはイプシロンに裏切られたことは特段大きなショックではない。


今回はしてやられた。いつかのタイミングを見誤ってものの見事に騙された。ただ、それだけで。

簡単に割り切れないなのだけだ。


「……っ教えてよ………っお願いだから、せめて、嘘つかないで、教えてよ!!」

どうにも納得がいかなくて、心をぐしゃぐしゃに掻き乱し、荒れさせる。

長い黒髪を振り乱しては強く訴え、教示の懇願を込めて悲痛に叫んだ。


「昔、助けてくれたのも。…か、家族みたいに、接してくれたのも。あたくし…っあたしに、アストリネとして教えてくれた全部。全部が、こうするための、嘘だったわけ!?」

何せ、ルナリナ=ネルカルはこれまで。過ごしてきた日々は辛くなかったのだ。

寧ろ充実していて、楽しかったと言える。

「苦しいことを乗り越えて、この国の改善だって、成し遂げて!区民たちと一緒に頑張ってきたのも、全部が嘘だったの?!」

それら全て嘘で、無駄だと思いきれなかった。

嘘だと仮定しても、あまりにも、優しすぎる。


多くの仕事を受け持ちこなして民の明日を願い、貴重な休日には野良猫たちに餌を施し長閑に過ごす。

誰かに受けた愛を分けようと、近しい者に尽くしてきた彼は、いったい何だったのだろう?


――だから、ネルカルは願ってしまう。何処かほんの少しだけ、と。


「どれが本当、だったのさ……」

ほんの少しだけ。イプシロンがこれまでの日々で安寧を感じ、生きていた時があったのではないかと。

そう願わざるを得ない。


少なくともネルカルにとっては、本当に大事で、守らないといけないと決めていた愛おしい日々だったのだから。


「――――――――」

だが、そのように真摯に望まれたとしても所詮、一方的な想い。

イプシロンの翡翠瞳は無機質なものだった。

彼女の嘆きは【ルド】の代表管理者としては失格で、考えの甘い少女の我儘にしか見えないのだろう。


しかと聞き届けた後は何処か呆れた調子で、長いため息を吐いていた。


「ネルカル。君は馬鹿じゃない。薄々どこかで俺の真意に気づいていたはずだ」

冷淡な指摘で返し、のちに瞳孔ごと揺れ震える双眸を見返しつつも蔑みを込めて突き返す。


「君が思う通りだった。全部、嘘だ。何せ俺はこれから【()()()どうなろうが………どうでもいい」

己の目的さえ果たせられたら、それでいい。秩序ではなく欲望を優先した宣言を堂々と言い放つ。


「……オルドヌング……」

たとえ、ネルカルから縋るように伸ばされた手を突き放し、これまでの信頼を破壊しても。

イプシロンは目を眇めて拒絶を現した。


「君が信じた二代目イプシロンは、始めから何処にもいないんだよ」


徹底した決定的な離反。道はとうに違えていたという明示。

ネルカルは溢れんばかりに瞠目し、瞳は揺れる中で息を呑んで、薄く開いた唇を固く噤んだ。

「――ッ、……――――」


絶望。失望。狼狽。それらが混じり合った慟哭が襲い、碧眼は涙の膜が覆っていく。

そんなネルカルを前にしても、イプシロンは冷然と見下ろすだけだ。


「――フフッ。酷い振り方するものだな。少女に対して多少の手心を与えれば良かったのに」

揶揄うように笑みを深めるグラフィスに、イプシロンが鋭い舌打ちを鳴らす。


「呑気に鑑賞してる場合か?これはお前のためにある舞台劇じゃない、とっととやるべきことをしてくれ」

「大丈夫。そう、急かさずともわかっているよ」


促されたグラフィスが、胸元から葡萄色の水晶の群生めいた結晶を取り出す。

片手に載せたその結晶を滑らせるように地面へ落とせば、パリン、と派手な音を立ててガラスが分散する。

「ッグ…!?」

「ぅあ゛ッ!!」

途端、ディーケとネルカルから悲鳴が上がった。

その四肢は、一瞬の内に水晶の群生に覆われている。

但し、寄生されてると喩えるより強制的に変質を促された状態に近い印象だ。

その上で侵蝕速度は目を瞠るもの。イプシロンが数度瞬きしてるうちに、水晶は対象の全身を覆い尽くし、頬まで呑み尽くしてる。


――与えられてくる苦痛と負荷は、相当重いのだろう。

目をキツく瞑ったネルカルは床に倒れ、片目を眇めるディーケは床に膝をつき掛けている。


「これは性質の変化、とでも例えるべきかな?封印とはまた違うものだ。我々アストリネが行う人間化の応用術……指定対象の肉体を強制的に変質させるものだよ。名前は確か――ふむ。なんだったかな…?」


顔面蒼白で脂汗すら浮かべるのをよそに、首を傾げて呑気に熟考に浸り始めたグラフィスに対し、イプシロンが閉じていた瞼を僅かに開く。

横目で鋭く睨みつつも、指摘も兼ねて告げた。


「[核]が破壊されなければ、アストリネは消滅しない。()()()()()()()()()なら、うってつけの対策だな?」

「ふふっ。どうしたって四十六代目ディーケを打破する方法が思いつかなかったからね。……かわいそうだけど……こうするしかなかったんだ」

決して可哀想と評しながら行う所業ではない。

改めてイプシロンは、グラフィスという女の悍ましさを痛感したように溜息を吐く。


「さて。イプシロン。ディーケにも……話、してあげたらどうかな?」

それを咎めるように、酔狂な提案をされた。

思わず不満を込めて睨めば、ニッコリと強制を促すように口角の笑みが深まる。

「どうかな?」

今一度促すように告げられて、気怠そうに薄目を浮かべたイプシロンは渋々と床に蹲りかけているディーケへ近づく。

動揺で僅かに揺れる珊瑚色の鋭い睥睨を、冷めた目で見下ろした。


「ディーケ。改めて言うよ。俺は君を恨んでない。この通り、心底どうでも良かったからな」

「………透羽、吏史も。……裏切る、つもりか……」

呻くような問いを受けたイプシロンは薄く唇を開ける。喉奥から込み上げる“何か”ごと唾を呑んで、封していた。

「――さあな。少なくとも、君がそれを知れる機会はない」

明確に起こりうる点だけを伝えては、言葉濁し、怜悧を携えた翡翠瞳を向ける。


「……“セレド”。俺を友として信頼したことに後悔を覚えてるなら、もう少し世を疑うんだな。――まあ、君に次があれば、この失敗を活かすといいさ」

そうして与えても意味もないやもしれない忠告か、嫌味たらしい助言めいた言葉を、敢えて吐いていた。


「……………………後悔は、して、いない」

多少の間を開けた上で、ディーケが口を開く。


「失敗とも、考えて、ない」

徐々に声帯もが水晶に飲まれゆく最中、絞り出すよう辿々しくも紡いだ。


「ただ、自分自身の、力不足を。痛感する。……お前の信頼を、勝ち取れなかった」

後悔や過ちがあるのならば、繋ぎ止めきれなかった己にあるのだと。

そう、意外なことを語られたが、イプシロンは感情の機微が露わになることはない。


「そうか」

冷淡に答え、踵を返すように背を向けて終わらせた。


「―――これで、満足か?」

「ああ。目の下のたんこぶにも等しい存在だったとはいえ、大好きだった相手との会話はさせてあげないとだろう?」

「悪趣味な……」

辟易するよう罵倒するイプシロンに対し、グラフィスが口角を深めていく。


「でも、とても長く眠ってしまうからね。今生の別れとなるのは確かだよ」

宣言と同時に、パキッとガラスが割れる音が立つ。

音は完了を示すもので、二塊の水晶の群生が完成していた。

まるで、納棺を想起させるような封印だ。そう簡単に解けないだろう。

無力化されたも同然だ。


「これで……これで私の『大海』が弱き者を包み、数多の苦痛から解放させてやれる……!」

高揚を隠し切れずに笑みを深めたグラフィスが、徐に手を叩き、合図を送る。

青色の電磁波――『門』が二つの群生の周囲で開いていた。

少しずつ泥沼に沈みゆくように、元々は足と思わしい箇所から傾いて呑まれていく。

「…………」

同時に、イプシロンも己の異能を抑えるよう、翡翠瞳の煌めきを瞼を閉じて封する。


「…が、……ぁ…!」

長い間、己の意思に反した行動を強要されていた兵士たちの脳神経には多大な負荷が生じたのだろう。

次々と意味のない母音を漏らし、総じて糸が切れた人形のように頭から床へ打ち付けるよう倒れ伏せてゆく。


ただ、後に一切動く気配はない。息絶えた骸のように指先すら動かしてなかった。


「彼らは、どの程度麻痺してるのかな?」

「……自然治癒なら脳神経細胞の再生は見込みがないが、『エンブリオ』を使えば三日程度で治るよ」

「おや、案外軽傷だな。情があったのかい?――どのみちこれから救済する子達だというのに」


残酷に平然と宣うグラフィスが、招くように両腕を広げる。

次々と周囲の床からは、白色の砂塵が源泉のように湧き始めていた。


「異能は一つしか持てない。だけど、兵器を活用すれば幾らでも持てる」


一匹、二匹と。

砂はやがて魚となり、鰭や鱗を象って宙という海を泳ぐ。鰯めいた小型から鮫という大型まで多彩なものが集い群れていた。


「……『遺児』もこのようにうまく扱えば、可愛いものだよ。まずは塔の崩壊から、かな」

華やかなレースじみた鰭を持つ金魚の形をした『遺児』が、グラフィスの指先に近づき触れていく。

それを慈しみを込めて輪郭をなぞり、愛でるのだ。


「さあ。始めようか。………大海の願いを、我が終焉を」


深海から響くように、安らぎに満ちた穏やかな声で宣言を下す。


「――ああ、そうだな」

しかし、押し寄せる波が到達する前、突如グラフィスを飲む昏き影が掛かる。


「早々に終わらせよう」


その元たる三対の砂の鎧武者は、主たるイプシロンの意に従う。

一斉にグラフィスの身を穿たんと、刀を突き出した。


グラフィスは即座に身を屈めて、瞬時に避ける。刀を交錯させた轟音が辺りに響き、空気を揺るがす。

だが、彼女は一切怯むことはない。

床に密着するまで低く伸ばした足ごと身を回す。最中に水が招かれ、上腕に纏わすことで楕円状の水刃が伸びる。

刹那の内に振り上げて、三体の鎧武者の刀ごと身を十六分割に断ち切った。


実に軽やかな鎮圧劇。

――しかし、それ自体も想定された上で本命の謀が機能する。

「!…ッゲホ!」

崩れた鎧武者から、不吉な黒煙が噴き出た。

黒煙を吸わないよう咄嗟にグラフィスは己の口元を覆うものの――遅い。

それを深く吸引してしまったグラフィスは肺が焼ける痛みに襲われて、激しく咳き込んでしまう。


「――隙を見せる時はここしかないと、一方的に教えてもらっていたよ」


腕に纏わせていた水が液状に変わり、床に溶けて広がる。異能を一時的に扱えなくなって弱った証明だ。

そのような姿を晒すしかないグラフィスを、イプシロンは冷淡に見下ろす。


「『吏史を引き取る代わりに、ヴァイスハイトレポートの作成させる』――君が指示した命令の裏で、『ミカエラ=グラフィスが最も油断する瞬間』を摑まされていた」

腰にかけていた長剣の柄を握り締める。

一度、円を描くように回し抜いた瞬間、即座にグラフィスの胴に切先を突き立てた。


「ッ!!――――ぁ゛ ッ…!」

深々と。剣が背まで貫通し、血濡れの先が覗いてる。

イプシロンは問答無用で、乱雑に剣を引き抜いた。


「サージュさんが俺になんの要求もせず、積極的に教えてくれたことだ。君を心底嫌ってるからなんだろうな」

夜海めいたドレスの色がより濃く変色し、血の匂いがあたりに充満して行く。

――神経を蝕む毒と、腹部の深傷を負ってしまった。グラフィスは暫しの間、身動きが取れない。

自己再生に時間と労力を奪われゆくのだ。


「………ふ、フフッ。なる、ほど?……ずっと……このため、だけに、十三年間も、大人しく……良い子にして、耐えていたと?」

苦し紛れにかかる質問にオルドヌングは何も答えない。

これから処分する相手との問答なぞ不要と、判断を下している。


掴む剣を振り払い、付着した血を地面に散らし払う。


「……胸骨の下には[核]がなかった、か。やはり予測通りにはいかない。順を追ってくとしよう」

確実に仕留めて処分を行うために。剣を構え直すだけ。


「……っ、…くはっ、ふ、フフっ……なんだ。そうか、そうかっ…!お前も所詮。かの方を()()()()()か…っ!」


毒に蝕まれて呼吸が乱れてるのに構わず、実に愚かしい選択だとグラフィスは嘲笑う。


「ああ、嗚呼、残念だよ。お前は特別だと、思ったから敢えて……生かしたが、…私の判断ミス、だったかな?」

紅く濡れた口を開き、ひどく掠れた声で囀るのだ。


()()()()()()()からの大恩を捨てて、醜い我欲を貫くつもりなんだね。オルドヌング」


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